2022年8月 8日 (月)

フリーア美術館(ワシントンD.C.)ウェブページの『熊野宮曼荼羅』の解説タイトルが間違ってる。

https://asia.si.edu/object/search/kumano
 ↑
「新宮」と「那智」の解説が入れ替わってますよ。

2022年5月22日 (日)

143ページの図「大山図の比較」(浄書本と内閣文庫本)

P143_ooyamazu_hudokiko

『新編相模国風土記稿』諸本の比較にはやはり図がわかりやすいかと思いましてこの「大山図」を掲載しました。陸軍文庫本(国会図書館蔵)、つまり江戸幕府地誌調所本の精細さが一目瞭然かと思います。ただ、陸軍文庫本は明治時代に、明治新政府の地誌課や、鳥跡蟹行社の方々がこれを原本に筆写する時に綴じ込みを一度ばらして筆写してまた綴じ直したのでしょう。不自然に綴じ込みが固くて中央部は読めません。しかも大山の部分はページの順番まで狂ってしまっています。いわゆる錯簡です。

1月に中止になったあつぎ郷土博物館の私の講演では以下の大山図の全体を4種類すべてお示しして、聴講のみなさんに間違い探しをして頂こうと思っていましたが、ここで公開します。写し間違いですぐに気づくところが一ヶ所あります。八大坊下寺(現在は阿夫利神社社務局)の文字の左の竹林らしき小さな林を描き忘れている写本が一つだけあります。さて、どれでしょう?

P143_ooyamazu_hudokiko_all

なお、文字の異動箇所につきましてはこちら↓で公開しています。
http://musictown2000.sub.jp/history/hudokikoh_ohyama.html

2022年4月15日 (金)

136ページの絵「かつて各所の御嶽神社の祭神だった蔵王権現」

P136_zaougongen

この絵はこの本の中で最も後悔している自分で描いた下手くそな絵です。数ある蔵王権現像の中でも秀麗な姿として評価の高い如意輪寺(奈良県吉野郡吉野町)のお姿をモデルにしました。お恥ずかしい。

西日本にはこの他にもたくさんの蔵王権現像や図が現存していますが、神奈川県には、南足柄市三竹の御嶽神社にだいぶお姿の壊れているのが残っているのと、相模原市緑区吉野の吉野神社の懸仏ぐらいしか現存していないのではないでしょうか(吉野の地名は偶然?)?
もと蔵王権現社だった御嶽神社はたくさんあっても、そのほとんどは亡失したか処分されたのでしょう。ほかにご存じの方がいたらぜひ教えて頂きたい。

ところが、『新編相模国風土記稿』津久井縣輿瀬村の蔵王社(現在の与瀬神社、相模原市緑区与瀬)の項には、当時まだ現存していた素晴らしいご神体の図像が掲載されています。あとから思い出してとても後悔しました!これを掲載すれば良かったのです!

ただし、この「蔵王権現ノ図」は刊行本ではその魅力は伝わりません。やはり原本の陸軍文庫本です。津久井縣の調査を担当したのは幕府地誌調所のスタッフではなく八王子千人同心の調査隊です。この絵は誰が描いたのでしょうか?この調査隊には『武蔵名勝図会』『日光山志』『鎌倉攬勝考』なども著した植田孟縉という地誌編纂の達人がいたことがわかっています。そして植田孟縉は実力のある画家でもありました。この調査隊には他に河西愛貴という画才のある人物もいて、この2人が八王子千人同心の地誌調査隊の原画作成の主力だったと考えられています(八王子市郷土資料館『江戸時代に描かれた多摩の風景~『新編武蔵國風土記稿』と『武蔵名勝図絵』』 2010 参照)。

この「蔵王権現ノ図」に限っては、明治政府が筆写させた内閣文庫本も見劣りしません。これもなかなかの絵師が担当したのでしょう。

今年1月23日、あつぎ郷土博物館で私の講演「相模国霊場研究と『新編相模国風土記稿』原本の存在」が予定されていました。しかし行政府の「まん延防止等重点措置」のため直前に中止になってしまいました。講演では文字テクストだけでなく各種図像の比較も行って『新編相模国風土記稿』各本の成立の順序をテクスト分析の手法でお示ししようと準備していました。

テクスト分析の材料として、そして、ほんとはこの陸軍文庫本「蔵王権現ノ図」をこの本の挿絵に使いたかったという思いをこめて以下ご紹介。

P136_zaougongen_hudokikou

※陸軍文庫本については以下をご参照下さい。
拙稿「相模の一山寺院と『新編相模国風土記稿』地誌調書上-大山寺と光勝寺-」(『山岳修験』第65号、日本山岳修験学会 2020)

2021年11月25日 (木)

101ページの絵図「江戸時代の松原明神と玉瀧坊」

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拙い手書きの絵図で恥ずかしいのですが、さすがに著作権上、『東海道分間延絵図』を写真複写してある東京美術本(児玉幸多監修 1978)をそのまま使う訳にもいきませんし、この印刷本では60.6%に縮尺されているため細かい字が読み取れないので、松原明神と玉瀧坊のあたりだけがわかるように自分で描いてみました。

『東海道分間延絵図』は『五海道其外分間延絵図並見取絵図』のうちの一つで、寛政十二年(1800)に幕府の事業として五街道をはじめ脇街道を含めた宿村で調査が始まったことがわかっています。詳しくは以下参照。
※杉山正司「『五街道分間延絵図』と『宿村大概帳』の制作」『郵政博物館研究紀要』第6号(2015)
※白井哲哉『日本近世地誌編纂史研究』思文閣出版(2004)

つまり、当時の国家の公式の縮尺1/1800絵図で、詳細で正確なところが魅力なのです。

玉瀧坊は、江戸時代が終わるとともに廃寺となり、松原明神も松原神社となって担い手も変わりました。しかし、昔のことがわからなくなってしまった現代になってもこの公式絵図が視覚的に当時を伝えてくれます。今の小田原市本町2丁目11番地~12番地一帯でしょうか。

30年近く前、まだ自分も不勉強だった頃、松原神社を訪ねて、昔の玉瀧坊はどこにあったのでしょう?などと質問させて頂いたことがありました。よくそういう質問をされるのですがわかりません、という事でした。現代の「神社」一般に(江戸時代以前の)昔のことを伺うのは無理なことが多いんだなあと実感した次第です。

2021年9月27日 (月)

82ページの図 「塔辻」地名 文政十二年 植田孟縉「鎌倉大概図」(『鎌倉攬勝考』)から作図

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江戸時代絵画目録という素晴らしいウェブページがあります。
http://andoh.la.coocan.jp
制作されていた方は、2020年にお亡くなりになったそうです(合掌)。このページを拝見して、植田孟縉という人物は画家としても一流の方だったことがよくわかりました。故人に深く御礼申し上げます。

そして、このウェブページの制作者も『新編相模国風土記稿』陸軍文庫本の複写を入手して公開していらっしゃっることに最近気付きました。ただし「稿本」と認識していらしたようですが。陸軍文庫本の存在に気付いていなかったのは神奈川県内のみかしらん?

それにしても、八王子千人同心組頭 植田孟縉(うえだもうしん)は偉人です。一流のフィールドワーカーであり、研究者であり、画家です。手がけた仕事は、この『鎌倉攬勝考』をはじめ、『新編武蔵国風土記稿』(多摩郡 他)・『武蔵名勝図会』(文政3年、1820)・『日光山志』(文政7年、1824、刊行は天保8年)、そしておそらく『新編相模国風土記稿』津久井県もと言われております。八王子周辺はもとより、鎌倉でも、栃木県日光でも、近世地誌編纂の達人として必ず名前が出てきます。

この『鎌倉攬勝考』の挿絵を植田孟縉が自分で描いていたかは存じませんが(ご存じの方は教えて下さい)、全く人任せとは思えません。恐れ多いとは思いましたが、ここでは「塔ノ辻」の地名表記がわかりやすいようにトレースさせて頂きました。

なお、『鎌倉攬勝考』では、「塔ノ辻」は「小町の北堺」(古えは大倉辻)、「建長寺、圓覺寺の門前と淨智寺の前」、「雪の下又鉄觀音の前」、「佐々目谷の東南の路端に二ツ」、の計7つが上げられています。現在では、鎌倉青年団が昭和初期に立てた佐々目ヶ谷の「塔ノ辻」石碑が知られています。ここでは本書でも触れた染屋太郎伝説。もとは鎌倉の市街地と郊外の境界にたてられた標石ではないかと歴史研究者は推測しています(奥富敬之『鎌倉史跡辞典』新人物往来社 1997)。いずれにしても、中世の段階でも本来の意味が不明になっていたところを勧進の山伏か僧に目をつけられて勧進唱導のネタにされたのだと思います。

2021年9月19日 (日)

77ページの絵「大山の良弁堂に祭られている良弁を助ける猿の像」

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今回は、せっかくなので、『新編相模国風土記稿』の江戸幕府地誌調所旧蔵本と写本3種類の絵を比べてみます。

注目点は
・猿のおでこの一番上のしわ・・・内閣文庫本は額の上部の線とくっ付いています。
・良弁の左手の袖・・・陸軍文庫本には描かれず、内閣文庫本ではしっかり描かれ、刊行本2種類ではほんのちょっと描きます。
・猿の右膝裏のしわ・・・内閣文庫本にだけしわがありません。
・猿の左膝裏のしわ・・・刊行本2種類にだけちょっと線が見えます。

大日本地誌体系本の底本は鳥跡蟹行社・谷野遠本なので、この絵に限らず刊行本2種は細部にわたってよく似ています。そして、この刊行本と内閣文庫本は本文も絵・図像も筆写間違いの箇所がほとんど一致しないので、明治の初期、それぞれ別に筆写作業が行われたことがわかります。

なお、この大山についての記述がある大住郡巻之十の陸軍文庫本は一部ページの順番がぐちゃぐちゃになっていました。明治時代の筆写作業で綴じ込みをばらしてまた綴じ直す時にやらかしたんだろうと思います。

※ 研究者の方は拙稿「相模の一山寺院と『新編相模国風土記稿』地誌調書上-大山寺と光勝寺-」(『山岳修験』第65号、日本山岳修験学会 2020)をご参照ください。

いずれにしても、『新編相模国風土記稿』の原本と断定できる陸軍文庫本は国立国会図書館の古典籍資料室に行かなければ閲覧できません。しかも複写を入手するのに、見開き一枚につき、撮影130円+入紙13円+フィルム伸ばし70円、計213円。大住郡だけ入手するのにも20万円ぐらい?これは行政府が文化行政としてやるべき仕事でしょう?

現在、多額の予算を使って編纂された神奈川県内の各自治体史資料編に掲載されているのはすべて内閣文庫本か刊行本、そのまま載せているか活字化しているか、いずれにしても税金の使い方としてはもったいなかった。これから自治体史を編纂する自治体が江戸幕府地誌調所旧蔵本(陸軍文庫本)を住民の皆様のために活用して下さることを祈るばかり。

2021年3月28日 (日)

29ページの写真「塩川滝」

P29_shiokawadaki

塩川滝については、愛川町役場の説明では「滝幅4m、落差約15m。724年~729年の神亀年間、奈良東大寺の別当良弁僧正がここに清流権現を祭ったとの伝承があります。滝つぼ近くは夏でもひんやりとした冷気が漂っています。雨乞いの霊験あらたかな滝であり、八菅修験の第五番の行所でもありました」と説明されています。

実は、八菅の山伏にとってだけでなく、大山の山伏にとっても、この滝を含めた塩川の谷の全体が中世前期にまでさかのぼる重要な行所だったことを本書でも詳しく触れています。

ところで、緊急事態宣言下で中止になってしまった筆者の講演「中世の山伏(修験者)と異界の出入り口 ―山岳マンダラと江ノ島淵―」(2/27予定@あつぎ郷土博物館)の中で、この塩川滝が『新編相模国風土記稿』諸本でどのように描かれているかを見比べて、この4枚の挿絵比較からだけでも、陸軍文庫本が原本でそれをもとに内閣文庫本も鳥跡蟹行社版も雄山閣版も写しているのがわかるのですよ~、というお話をパワーポイントを使ってしようと準備していたのですが。残念。また別の機会にいたします。

2020年12月14日 (月)

1ページの写真『御行列』(宝暦7年)の八菅山伏

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表紙の写真その5でもご紹介した『御行列』に描かれている八菅山伏。江戸時代に京都の人々が目撃した豪華な山伏パレードの様子を図録として出版したものだと思います。

-----------------------------------------
・・・(前略)・・・
〇役山伏(八人)   〇役山伏(八人)
〇八菅山(山伏五人) 〇八菅山(山伏五人)
貝          貝
同          同
〇御笈        〇御笈
同          同
〇御閼伽桶(二人)
〇御持貝(二人)   〇御持貝(二人)
  〇同(二人)
・・・(後略)・・・
-----------------------------------------
・・・(前略)・・・
【相州八菅山】
  宝喜院
  重仙院
  覚蔵院
  覚養院
  圓宥院
  山本院
  吉野院
 右之外坊中有之略ス
・・・(後略)・・・
-----------------------------------------
・・・(前略)・・・
役山伏衆

八菅山衆
・・・(後略)・・・
-----------------------------------------

宝暦7年(1757)に京都で出版されたこの『御行列』。この版元(今で言う出版社)がどこでどのように情報を取材したのかはわかりませんが(やはり聖護院からかしらん?)、聖護院門跡増賞(ぞうしょう)親王(桜町天皇の猶子)の大峰入峰修行に供奉した全国山伏の中に、八菅山伏の行列内の位置と人数、そして八菅山から参加した10院坊のうち7人の山伏の名前が記され数人の八菅山伏が描かれているのは大変興味深いです。

このうち覚蔵院と吉野院は文政9年(1826)の『相州八菅山書上』ではすでに退転(廃絶)しています。

まだこの本の全文全画を分析した方はいないので、いつか時間が出来たら分析してみたいと思います。

2020年10月15日 (木)

表紙の写真その5『御行列』

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大峰山中でのご本尊を入れた木製リュックサック「御笈(おい)」を背負うお役目の山伏たち。

宝暦7年(1757)に京都で出版されたこの『御行列』。八菅山以外にもどこかに残っていないかなあと探して「日本の古本屋」のサイトでも見つけたことがありますがそこでは『御入峯御行列記』という書名で、しかも絵無しの写本でした。ところが考古学の森下恵介先生がこの夏に出版された『吉野と大峰 山岳修験の考古学』(東方出版)を購入したら、その表紙がまさにこれでびっくり。現代新日本語的に言うと「かぶり」ました(笑)。ここでも史料名は『御入峯御行列記』。愛川町では『御行列』です。表紙の文字は消えてしまったのか表題がない状態で、最後に「御行列板元」として京都の板元(版元)の住所と名前があります。

宝暦七年(1757)に、当時の全国本山派山伏の棟梁 聖護院門跡増賞(ぞうしょう)親王(桜町天皇の猶子、当時23歳?)が大峰に入峰する時の長大な行列を一冊の本に仕立てたものです。描かれているのは山伏を中心にお付きの人々を含めて299人。でも当時の記録では実際は781人が入峰(『修験道聖護院史要覧』岩田書院2015)。7/25京都出立、徒歩(門跡は四方輿、一部は乗馬)で吉野(奈良県)へ向かい8/6から大峰山中で修行、9/2熊野本宮着、9/22京都帰着、10/10京都御所へ駈出参内(たぶん今で言う土足参内)、10/29江戸下向、12/6京都帰着。

大峰修行で身に着けた新鮮な験力(げんりき=山伏の宗教的・呪術的なパワー)を使って天皇と将軍を守るのが聖護院門跡の一番の使命でした。

そして、山伏装束の華やかな大規模パレードの様子を本にしてみんなで楽しもうというのがこの本の趣旨かと思います。出発時には山伏装束も法具の数々も汚れていないし、京都や途中の街道沿いの見物人の数もものすごかったはずです。

この行列の中に、八菅山衆 (愛川町)、覚圓坊(町田市木曽)、大蔵院(町田市図師)、熊野堂(厚木市旭町)、大鏡院(厚木市小野)、玉瀧坊(小田原市)、泉乗院(津久井長竹、相模原市緑区)、南覚院(相模原市中央区上溝)、仙能院(秦野市横野)などなど東京・神奈川エリアの山伏も描かれている訳です。八菅山に残っていたのも、自分たちがメディアに紹介された自慢の証拠として保存されていたからではないでしょうか。自己主張的書き込みも数々あります。

2020年10月 1日 (木)

『丹沢・大山・相模の村里と山伏~歴史資料を読みとく』2020年9月23日出版

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どなたにも手に取って頂けるようにとハンディーなサイズの本を出版いたしました。この本には自分で撮影した写真や作図した図を中心に約100枚を使っています。本のサイズに合わせて写真や図は小さめにしました。でも、一枚一枚に歴史と思い出があります。一つ一つゆっくりとご紹介したいと思います。
http://banshowboh.world.coocan.jp/book2.html

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