展望

2024年8月14日 (水)

2024年夏の丹沢山地

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2024年3月18日 (月)

出張講演「『大山地誌調書上』に記録された大山の姿」@伊勢原市 雨岳文庫

3/17(日)に伊勢原市の雨岳文庫から講師としてお招きいただき講演をしてまいりました。50人ほどのご参加者が大変熱心に聴いて下さいました。中には、万象房会員の方、相模国霊場研究会に参加している大学院生、伊勢原地区選出の県会議員の方、教育委員会の方、雨岳文庫を拠点に『新編相模国風土記稿』を調査している方々、大山道を踏査している方々、などなど、大山研究に対する意気込みを皆さんから感じた次第。

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公益財団法人 雨岳文庫のホームページはこちら↓
https://ugakubunko.org/ohp/

今回の内容はスライド中心でご説明したので、レジュメはそのうちの省略版になりますが、こちらです。

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私の次回講演会は4/16(火)夜に、「町田グラウス山の会」の会員様対象に行います。

2022年10月24日 (月)

日本山岳修験学会 第42回学術大会@長野県飯田市

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主催 日本山岳修験学会・同第 42 回飯田学術大会実行委員会
共催 柳田國男記念伊那民俗学研究所・飯田市・飯田市教育委員会
後援 南信州広域連合・伊那谷研究団体協議会・南信州文化財の会・伊那史学会・伊那谷地名研究会・風越山を愛する会

研究発表:「三山学頭檀那院胤海と念仏聖」「東日本大震災以降における法印神楽の継承とその課題」「文化観光と修験道—羽黒山を中心に—」「験比べについての一考察」「新しい霊山に集う人々—近代武州日原(にっぱら)白石山の仙人・教祖・行者—」「昭和戦後期の武州御嶽山—生存戦略としての観光化—」「富士山登山案内図の制作と頒布—吉原宿田子之浦絵図の分析から—」「西浦田楽における別当と能衆」「南信州の富士山信仰を探る」「長野県南部・愛知三河の亡霊塔」「文化八年 十六善神図 から検討する秋葉・金比羅信仰の諸相」「英彦山修験道における自然信仰と森林文化再興—鬼杉落枝と千本杉による不動明王像制作—」「和歌森太郎の木曜会加入前における修験道研究」

公開講演:天竜川水系における山岳信仰と修験道
「山岳信仰と景観 —虚空蔵山を中心に—」「東山道と南信州の顕密寺院」「遠山霜月祭にみる修験道儀礼と信仰」

巡検:Aコース(白山信仰の山 風越山(権現山)登拝コース)、Bコース(東山道と南信州の顕密寺院)、Cコース(遠山霜月祭の伝承地)

私は風越山に登ってきました。今までほとんどご縁の無い場所で、全国から参加された研究者の幅広いご発表でした。今回は山岳宗教・修験そのものよりも山岳信仰の諸相のご発表が多いのかなという個人的印象をもちました。

しかし、遠かったです。来年は 鹿児島県霧島11/25-27だそうです。参加できるのかどうかまだ不明です。

学会ホームページはこちら↓です。会員常時募集中です。
http://www.sangakushugen.jp/index.html


2022年3月 8日 (火)

127ページの写真「伊勢原市日向の道しるべ庚申塔」

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 天明元歳(1781)
 丑六月吉日

庚申塔

 右 いい山
 左 やくし 道

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九州の山伏、野田泉光院が、飯山観音、日向薬師、大山寺を訪ね歩いた頃、巡礼峠~日向薬師の辺りにはたくさんの道標が建立されていて今でもその道標の文字を判読できるものも少なくありません。それだけ多くの参詣者が歩いていた証拠です。

お陰様で、現代でも、この辺りをフィールドワークする時の楽しみの一つになります。そして、巡礼者・参詣者を迎え入れていたこの地域の人々の信仰とホスピタリティを感じることも出来ます。

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これは泉光院が歩いた時にはまだ建立されていません。
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 右 いい山
 左 ひなた 道

南無阿弥陀仏

 文政十丁亥(1827)
 十月 日

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これはちょっとルートからは外れるので泉光院も見ていないと思います。
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 右ハ ひなた道
 左ハ 大 山 道

(青面金剛像)(三猿)

 判読不能

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 明和六己□年(1769)
     三月吉日

(青面金剛像)(三猿)

 此方 いい山み□

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     寛保ニ壬戌(1742)□月吉日

庚申供養 右やくし道

     左一之沢大山みち

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2022年2月27日 (日)

125ページの写真「現在の八菅山遠望」

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中津地区から八菅山を展望すると奥に経ヶ岳が望めて、手前には八菅山光勝寺の結界とも考えられる中津川、昔から好きな景観なのですが、解像度の高い良い写真を撮っていなかったのでこの程度で申し訳ない感じです。

自分の高校時代の剣道部の主将が中津の熊坂君だったので、中津地区にはたまに訪ねることはありましたが、八菅山についてはかつては正直あまり意識していませんでした。それが、俄然、注目することになったのは、神奈川ヒマラヤ登山隊長だった広島三朗さん(地理学)の影響です。

当時、『地球の歩き方 パキスタン編』(ダイヤモンド・ビッグ社)を一人で書き上げていたほどのパキスタンの専門家で、その他にも『神奈川県の山』『山が楽しくなる地形と地学』(山と渓谷社)、『K2登頂幸運と友情の山』(実業之日本社)など、登山家ながら執筆活動にも熱心で、一度退職してK2に登って来てマスコミに英雄的に評価されたのを活用してまた神奈川県の教員に戻るという離れ業をやった伝説の高校教師です。

相模台工業高校の職員室で机を並べていろいろな事を教わり、特に野外フィールドワーク授業のノウハウは感動すら覚えました。広島さんが、職員室で授業の合間に出版社向けの原稿を周囲の眼など気にもせず書きまくっていた時、「丹沢のガイドブックに歴史情報も書き加えたいんだけれど、城川さん、日本の宗教思想史専門だったら八菅や丹沢の山伏について調べといてよ」。その言葉が遺言のようになりました。その年1997年(平成9)夏、ヒマラヤ遠征で、登頂成功後のベースキャンプを大きな雪崩が襲い、隊員の仲間とともに亡くなりました。合掌。

それから20年後、第38回日本山岳修験学会山北・丹沢学術大会(2017)で「聖護院蔵『相州八菅山付属修行所方角道法記』と入峰空間考」というタイトルで研究発表をいたしました。その内容は「「相模の国峰」再考-相州愛甲郡八菅山付属修行所方角道法記』と『相州八菅山書上』」(『山岳修験』第62号)という論文になっています。
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広島さんの遺言の約束を一つ果たしたような気がしたのでした。

ところで、今年3月5日から予定されていた日本山岳修験学会第41回 富士山学術大会が諸般の事情により残念ながらオンライン開催に変更されました。その研究発表の中に5年前の自分の発表と全く同じタイトルを発見!びっくり仰天、しかも和歌山熊野の山本先生!とても楽しみです。ただ、発表日の3/6(日)は万象房の仕事をしながらになってしまったので、拝聴出来るかどうかが微妙なところです。

☆3/2追記:同じタイトルだったのは学会事務局の作業ミスによるものと判明いたしました。山本先生のご発表正式タイトルは「那智参詣曼荼羅再考」でした。どうも以前の書類を上書きしながら作業をしているうちに5年前の私のタイトルが残ってしまっていたらしいです。拍子抜けいたしました。

2022年2月 4日 (金)

119ページの写真「行者ヶ岳と鎖場」

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日向山霊山寺(日向薬師)の坊中に伝わった『峯中記略扣 常蓮坊』には行者ヶ岳での修行についてこのように記録されています。
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大キナル岩ノ上ニ役ノ行者有ココニ札納法示祓シ
是ヨリ左ニ付下ルト新客ノゾキノ岩有
是ニ新客ノ腰縄ヲ付ミセル也

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大峰奥駈の新客修行の記憶がまだ新しい頃、この行者ヶ岳「ノゾキノ岩」の記述は、山上ヶ岳表行場「西の覗」や裏行場「平等岩」の超緊張の修行が蘇って、思わずどの岩だ?と探さずにはいられませんでした。

すでに崩落したり地形が変ってしまっている可能性もあるので、これは絶対探し当てられない妄想の世界ですが、学術研究論文ではまさか載せられないけれど一般向けの書籍ならば読者の理解の一助としてイメージ写真的に良いかなと判断し、この筆者の妄想を『丹沢の行者道を歩く』(白山書房 2005)ではかつて掲載いたしました。それがこちらです。

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2022年1月31日 (月)

117ページの写真「秦野市堀西から見た塔ノ岳と丹沢表尾根」

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子供の頃、冬になれば毎年見ていた当たり前の景色。特に河岸段丘の森に囲まれた四十八瀬川からの景色は格別です。

1960年代の四十八瀬川にはまだ清流魚のカジカがたくさんいました。夏休みには水中眼鏡と銛とお醤油を持って川に行き魚を捕まえて、川べりの焚火で焼いて食べたりもしました。上流にあった釣り堀?養殖場?から逃げて来たらしいニジマスを見つけて皆で懸命に捕獲作戦をしたこともありました。ヤマビルなんてまだ一匹もいなかった時代です。

秋になれば秦野西小学校の図画工作の野外授業でよく四十八瀬川に写生に出かけました。紅葉の森とその奥にそびえる丹沢山地を必ず描かされたように記憶しています。そして、冬になれば、稜線に近い上の方からだんだんと雪で白くなっていきます。今よりも積雪が多かった時代です。

小学校の校歌にも中学校の校歌にも歌詞の中に「四十八瀬川」がありました。特に秦野西中学校の校歌は、地元出身の歌人・国文学者 谷 鼎(たにかなえ)の作詞です。子供の頃からの見慣れた風景を念頭に置いて詞を書いたのだと思いますが、「丹沢」は出てこない。当たり前すぎて必要なかったのかもしれない。
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秦野西中学校校歌
作詞:谷 鼎 作曲:吉岡孝之

近くあふりね遠く富士 高きわれらの希望ぞと
日毎あおぎてふるいたつ 若き力は今ここに

四十八瀬の川の音 清きわれらの心ぞと
日毎聞きつつ励み行く 若き力は今ここに

仁者は山を楽しむと 智者は水をば楽しむと
麗しきかなこの自然 たのまんかなやこの大地

新しき世をおこしては 世界の平和打ち建てん
自主協同を志す 若き力は今ここに

2022年1月23日 (日)

116ページの写真「不動ノ峰から蛭ヶ岳への尾根筋」

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「不動ノ峰」は、日向山霊山寺の山伏が「宿」(キャンプ地)としていた不動尊を祭る「神前ノ平地」(『峯中記略扣 常蓮坊』)、また、文化二年(1805)の佐藤さんたちが「不動嶽」と呼んでいた「イタツテ平チ也ル所」(『黒尊佛山方之事』)、つまり「不動ノ平」を登り詰めた峰ということで明治以降そう命名されたのだと思います。「不動ノ平」(「神前ノ平地」「不動嶽」)については22ページの写真「不動ノ平」でも触れました。

この写真は、2016年8月13日6時48分撮影というデータになっていました。宮ヶ瀬湖(清川村)から丹沢湖(山北町)まで歩く調査撮影山行。お盆の時ぐらいしかじっくり山に入る暇がなかった頃で、その時のレポートはコチラ↓
https://banshowboh.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/2016-12df.html

その頃、本を書くつもりだったのか、とびっくり。それどころか次々に新出史料が発見されて論文書きで精一杯になることをまだ知らない自分。それにしてもこの一枚は『黒尊佛山方之事』の記述がピンとくる景観写真だと思うのです。

この時の成果は拙稿「丹沢山地・蛭ヶ岳と山岳修行者の空間認識」『山岳修験』第58号 日本山岳修験学会 2016をご参照ください。

2022年1月11日 (火)

114ページの写真「竜ヶ馬場から見た大山」

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文化2年(1805)に佐藤さんが大山を遥拝した辺りは、日向山霊山寺(伊勢原市)の山伏は入峰修行の中で「竜ガ馬場」と呼んでいました。佐藤さんは気付かなかったのかもしれませんが、ここに龍樹菩薩が祭られて碑伝が納められていたようです。日向山伏の常連坊が書き残した『峯中記略扣』には、尊仏岩の次の行所としてこうあります。
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是ヨリ登リ龍ガ馬場也此所百間程ノ長サニ而広ハ五間位ノ馬場ノ形也此中所ニ竜樹菩薩ノ尊有是ニ札納而モ此馬場ニ而竜樹ボサツ馬ニ御ナリ相成候ト云伝也

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馬の話が出てきますが、これはもちろん信仰上の神話です。山伏たちが名付けた地名が現代の登山地図にそのまま使用されている例は本書で紹介しています。この写真は2005年4月6日の昼前に撮影したデータ記録になっています。当時持っていたカメラが安物なので画質はイマイチですが、本書で使った写真にフォトショップでつなげてパノラマ写真も当時作ってあったのでここではそれを掲載します。

ところで、まず馬が登って来られそうにないところに「馬場」がつく地名が多いのは北陸の白山だと思います。『白山山頂遺跡群調査報告書』(石川県白山市教育委員会、2011)によれば、まず山頂へ向かう3本の禅定道(登拝ルート)の始点が「美濃馬場」「越前馬場」「加賀馬場」。山中では、美濃禅定道には「南竜ヶ馬場」、越前禅定道には「相撲の馬場(仕舞の馬場)」、加賀禅定道には「北竜ヶ馬場」。山中の「馬場」地名とその神話は中世山伏の広域修行ネットワークを通じて丹沢山地にも運ばれて来たんだろうと思っています。

そして白山にまたいつか登ってみたい。これも2005年秋の思い出写真
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2021年12月30日 (木)

110ページの鳥瞰図「『黒尊仏山方之事』の参詣コース」

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この鳥瞰図も、カシミール(https://www.kashmir3d.com)と山旅倶楽部(http://www.yamatabi.net/main/index.html)で作成しています。作図についての詳細はこちらで↓。
https://banshowboh.cocolog-nifty.com/book2020/2021/01/post-9c5dee.html

19世紀の初め、大山寺の御師の一人が、大倉から蛭ヶ岳までを日帰り参詣登山した貴重な記録を鳥瞰図で読者の皆様にわかって頂ければと作図いたしました。

ちょうど先週、このコースの一部をトレーニングがてら歩いて来ました。文化2年(1805)に歩いた佐藤さんは、富士山・愛鷹山・箱根山・伊豆を拝めたのでしょうか?書き残していないところをみると天候に恵まれず拝めなかったのかもしれません。この絶景を見たならば書き残すだろうと思うのです。
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