旅行・地域

2020年12月29日 (火)

3ページの写真「相模原市南区県立相模原公園からの丹沢の展望」

P3_tanzawa_sagamiharakoen

県立相模原公園は相模原台地(相模野台地)の上段の縁にあって、そこから中段・下段の台地面といくつもの河岸段丘崖が相模川に向かって下っています。相模川が作り出した地形のヴァリエーションが面白いところでもあります。

この角度の丹沢山地の景色は、町田市からもさらに都心からも同じように見えます。そしてこの角度からも実はそう標高が高くない大山の形が見事に見えます。さらに東に距離が遠くなるほど丹沢山地の裏に隠れている富士山が顔を出し、それはそれで立派なのですが、「相模の村里」と銘打っている以上、やはり相模原からの展望にしておこうと思いました。

新型コロナ・ウイルスCovid-19感染拡大が始まって仕事もストップしてしまっていた4月6日の朝、空気が比較的澄んでいるタイミングを見計らって撮影いたしました。

自分は相模原市南部エリアの学校に計3校、結局17年間も勤務していたので、通勤・家庭訪問・出張・校外行事・フィールドワークなどを通じて色々と想い出もある河岸段丘エリアです。勤務中びっくりするような経験も数々しておりますが、高校教師時代に体験目撃したことの中にはこれは守秘義務があるなあと思われることも少なくないので、文章に書くことは控えます。

2020年12月24日 (木)

2ページの写真「秦野市渋沢丘陵震生湖近くからの丹沢の展望」

P2_tanzawa_omoteone

この写真を撮った渋沢丘陵周辺は子供の頃の一番の遊び場です。この景色は秦野育ちの人間にとってとてもなじみのある景色です。

この写真の撮影場所は秦野南地区のエリアになりますが、自分が育った秦野西地区には、当時、小学校は西小と上小の2つのみ(渋沢小も堀川小もまだありません)。中学校も西中だけで、渋沢中もまだありませんでした。西小学校も西中学校もとても広い学区でした。遠足では小学校でも中学校でも塔ノ岳へ登りました。友達との遊び場は、北は登山口の大倉、滝沢キャンプ場あたり、西は四十八瀬川、南は学区内の峠はもちろん大井町の高尾まで足を延ばしました。

四十八瀬川はまだ清流でカジカがたくさんいました。夏は水中眼鏡とシュノーケルを付けて捕まえて焚火で焼いて食べたりもしました。

峠には黄鉄鉱の鉱山跡があって白い粘土と黄鉄鉱を採りに行きました。峠のトンネルは電気もなく真っ暗で舗装されていなかったので凸凹でした。黄鉄鉱は子供にとって「金(ゴールド)」の意味がありました。ところが、帰りに自転車をこいでいるとトンネルの中で「金」をたくさん入れた袋がいつの間にか破れて出口でがっかりというような事件もありました。

大井町の高尾にはハヤ(ウグイ)の群れがたくさん目視できる谷間の清流がありました。ここは秘密のスポットで、誰でも10匹以上釣れるような場所でした。初夏の頃、帰りに山道沿いの木苺(モミジイチゴ)をみんなで争うように食べながら歩きました。もちろん今は堰堤工事や護岸工事でそのスポットは消滅しています。

秋の震生湖にはサツマイモを大量に買い込んでアルミホイルとマッチを持ってみんなで出かけました。湖畔で焚火を起こしてその中にアルミホイルに包んだサツマイモを入れて、焼きあがるまではみんなで「缶蹴り」。焼きたての焼き芋は別格の美味しさだった記憶があります。小学校高学年の頃には父親に表尾根や丹沢縦走に連れていかれていたので、この写真の場所からのだいたいの山名は認識していましたが、「同角ノ頭」はつい最近までわかっていませんでした。

2020年12月16日 (水)

2ページの写真「夕暮れの蛭ヶ岳山頂から富士を望む」

一昨年まで、数年間、8月のお盆休みに、写真を撮り貯めるために丹沢の縦走に行っていました。そのうちまとめようと考えていた本に載せる材料を集めておきたかったのです。良い写真を撮るには、秋~冬の方が好条件に決まっていますが、何しろ、ゆっくりと泊りで縦走する時間を他の時期に持っていません。普段は基本的に貧乏暇なしで色んな意味で余裕がありません。それに丹沢の山小屋が一番空いている時です。

当然、雨や霧に見舞われ、写真撮影にはお話にならない事が多かったです。

それでも、新しいカメラを買った直後に焼山方面から登った2018年は、蛭ヶ岳山頂で西丹沢の山々から流れ落ちる雄大な滝雲を撮影。考えてみれば、動画を撮っておけば良かったのに、まだ新しいカメラの使い方がよくわからず写真のみ。そこでその時の写真を使ってスライド動画を作成してみました。

この時、縦走してみたいと付いてきた若手歌姫も、その時は蛭ヶ岳山頂で「恋愛なんてめんどくさいじゃないですか~」と言っていたのに、その翌年にはしっかり恋愛結婚して無事にお母さんになりました。めでたしめでたし。時々、子供を連れてきて「町田のじいじいだよ~」と紹介してくれます。
※その歌姫がご結婚直後に私が昔作曲した「祝い歌」という曲を夫婦で演奏してくれた時の様子
 ↓
https://www.youtube.com/watch?v=vdVZNB7Uc-Q&list=PLUvhYdHqiB5oXUS3THhNGMssb8jgkPvDK&index=11

2020年12月14日 (月)

1ページの写真『御行列』(宝暦7年)の八菅山伏

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表紙の写真その5でもご紹介した『御行列』に描かれている八菅山伏。江戸時代に京都の人々が目撃した豪華な山伏パレードの様子を図録として出版したものだと思います。

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・・・(前略)・・・
〇役山伏(八人)   〇役山伏(八人)
〇八菅山(山伏五人) 〇八菅山(山伏五人)
貝          貝
同          同
〇御笈        〇御笈
同          同
〇御閼伽桶(二人)
〇御持貝(二人)   〇御持貝(二人)
  〇同(二人)
・・・(後略)・・・
-----------------------------------------
・・・(前略)・・・
【相州八菅山】
  宝喜院
  重仙院
  覚蔵院
  覚養院
  圓宥院
  山本院
  吉野院
 右之外坊中有之略ス
・・・(後略)・・・
-----------------------------------------
・・・(前略)・・・
役山伏衆

八菅山衆
・・・(後略)・・・
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宝暦7年(1757)に京都で出版されたこの『御行列』。この版元(今で言う出版社)がどこでどのように情報を取材したのかはわかりませんが(やはり聖護院からかしらん?)、聖護院門跡増賞(ぞうしょう)親王(桜町天皇の猶子)の大峰入峰修行に供奉した全国山伏の中に、八菅山伏の行列内の位置と人数、そして八菅山から参加した10院坊のうち7人の山伏の名前が記され数人の八菅山伏が描かれているのは大変興味深いです。

このうち覚蔵院と吉野院は文政9年(1826)の『相州八菅山書上』ではすでに退転(廃絶)しています。

まだこの本の全文全画を分析した方はいないので、いつか時間が出来たら分析してみたいと思います。

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