136ページの絵「かつて各所の御嶽神社の祭神だった蔵王権現」
この絵はこの本の中で最も後悔している自分で描いた下手くそな絵です。数ある蔵王権現像の中でも秀麗な姿として評価の高い如意輪寺(奈良県吉野郡吉野町)のお姿をモデルにしました。お恥ずかしい。
西日本にはこの他にもたくさんの蔵王権現像や図が現存していますが、神奈川県には、南足柄市三竹の御嶽神社にだいぶお姿の壊れているのが残っているのと、相模原市緑区吉野の吉野神社の懸仏ぐらいしか現存していないのではないでしょうか(吉野の地名は偶然?)?
もと蔵王権現社だった御嶽神社はたくさんあっても、そのほとんどは亡失したか処分されたのでしょう。ほかにご存じの方がいたらぜひ教えて頂きたい。
ところが、『新編相模国風土記稿』津久井縣輿瀬村の蔵王社(現在の与瀬神社、相模原市緑区与瀬)の項には、当時まだ現存していた素晴らしいご神体の図像が掲載されています。あとから思い出してとても後悔しました!これを掲載すれば良かったのです!
ただし、この「蔵王権現ノ図」は刊行本ではその魅力は伝わりません。やはり原本の陸軍文庫本です。津久井縣の調査を担当したのは幕府地誌調所のスタッフではなく八王子千人同心の調査隊です。この絵は誰が描いたのでしょうか?この調査隊には『武蔵名勝図会』『日光山志』『鎌倉攬勝考』なども著した植田孟縉という地誌編纂の達人がいたことがわかっています。そして植田孟縉は実力のある画家でもありました。この調査隊には他に河西愛貴という画才のある人物もいて、この2人が八王子千人同心の地誌調査隊の原画作成の主力だったと考えられています(八王子市郷土資料館『江戸時代に描かれた多摩の風景~『新編武蔵國風土記稿』と『武蔵名勝図絵』』 2010 参照)。
この「蔵王権現ノ図」に限っては、明治政府が筆写させた内閣文庫本も見劣りしません。これもなかなかの絵師が担当したのでしょう。
今年1月23日、あつぎ郷土博物館で私の講演「相模国霊場研究と『新編相模国風土記稿』原本の存在」が予定されていました。しかし行政府の「まん延防止等重点措置」のため直前に中止になってしまいました。講演では文字テクストだけでなく各種図像の比較も行って『新編相模国風土記稿』各本の成立の順序をテクスト分析の手法でお示ししようと準備していました。
テクスト分析の材料として、そして、ほんとはこの陸軍文庫本「蔵王権現ノ図」をこの本の挿絵に使いたかったという思いをこめて以下ご紹介。
※陸軍文庫本については以下をご参照下さい。
拙稿「相模の一山寺院と『新編相模国風土記稿』地誌調書上-大山寺と光勝寺-」(『山岳修験』第65号、日本山岳修験学会 2020)
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