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2022年2月 7日 (月)

122ページの写真「蓑笠の森」

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この神社の境内には聖護院門跡道興准后『廻国雑記』のこの歌碑があります。
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 蓑笠の社(『廻国雑記』では「森」)とて社頭ましまし
 けり しばらく法施し待りて
天下(あめのした)守らんための誓いとや ここにきやどる
 みのかさの杜

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『中井町誌』(1990)第2章「中井町の歴史」の蓑笠神社の項では、碑文の署名「松屋主人平興清録」を紹介して時代も誰かも不明という説明になっていたので、自分で撮影したこの写真を確認してみたのですが、よく見れば「興」ではなく「與」つまり「与清」ではないですか!これはかの有名な国学者 小山田与清だ!「松屋」も合ってる!とびっくり。

P122_minogasa2

町田市立図書館などは小山田与清『翻刻 筑井紀行』まで発行しています。即、中井町郷土資料館に、ぜひ郷土のためにも小山田与清研究者のためにも説明版などがあると喜ばれるのではという老婆心メールを送らせて頂きました。でも、もう気付いていらっしゃるかもしれませんが。

この神社に江戸時代までは存在していた天正11年(1583)の棟札の図像が『新編相模国風土記稿』に掲載されています。『中井町誌』でも注目して同時代史料や旧家の歴史も踏まえた上で分析していて参考になります。ただ、『風土記稿』の写し方がどこまで正確かは陸軍文庫本・内閣文庫本・刊行本を見比べないとわからないのですが、とりあえず活字にしてみました。原本の陸軍文庫本を見る機会があったら追って修正します。

ここで、今まで誤解されていたと思われるのが「道師宗憲寺 別當 三光院」のところで、宗憲寺(土屋村、平塚市)の別当(寺院の長)の三光院という僧侶が土屋村からやって来て導師を務めたと読むべきで、この頃から蓑笠明神の別当が三光院だった確証はないという事です。この三光院、またはその後継者は、その後、井ノ口村に引っ越してきて江戸時代は代々蓑笠明神の別当を務めたという理解をすべきだと思います。江戸時代後期に生まれた「別当寺」という新造語には要注意。「別当」は本来個人にかかる肩書です。
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 (種字アン?) 道師宗憲寺 別當 三光院

   中村外記奉加助□□□
   □ 九良男女貴族□
   同図書助六済衆

   金子和泉守□□□□
   若狭守
   定使□□□

 聖主聖主天中天迦陵頻伽聲

(種字バーンク?)奉修覆社頭壹宇処本願禰宜

 哀愍衆生者我等今敬禮 大工 高奈治部左衛門

 御前様壱貫五百文
 此外 上下太刀□□當代官澤野佐渡守五百文

   尾上図書助□□□□
   賀藤十兵衛

    同名□□□ 天正十一暦癸未二日敬白

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その昔、通勤途中に4年間は毎日この蓑笠神社の前を通っていました。運転免許も取り立てで、まだ二宮と秦野をつなぐバイパスも無かったので、細い県道をおっかなびっくり運転して車に慣れたのでした。途中、井ノ口のバス停で当時の職場の二宮高校の生徒が本数の少ないバスに間に合わず大遅刻決定で途方に暮れているのを発見し、乗せてあげたことも実は何度か。今だったら職場で怒られてしまうのかしら。

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