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2022年2月

2022年2月27日 (日)

125ページの写真「現在の八菅山遠望」

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中津地区から八菅山を展望すると奥に経ヶ岳が望めて、手前には八菅山光勝寺の結界とも考えられる中津川、昔から好きな景観なのですが、解像度の高い良い写真を撮っていなかったのでこの程度で申し訳ない感じです。

自分の高校時代の剣道部の主将が中津の熊坂君だったので、中津地区にはたまに訪ねることはありましたが、八菅山についてはかつては正直あまり意識していませんでした。それが、俄然、注目することになったのは、神奈川ヒマラヤ登山隊長だった広島三朗さん(地理学)の影響です。

当時、『地球の歩き方 パキスタン編』(ダイヤモンド・ビッグ社)を一人で書き上げていたほどのパキスタンの専門家で、その他にも『神奈川県の山』『山が楽しくなる地形と地学』(山と渓谷社)、『K2登頂幸運と友情の山』(実業之日本社)など、登山家ながら執筆活動にも熱心で、一度退職してK2に登って来てマスコミに英雄的に評価されたのを活用してまた神奈川県の教員に戻るという離れ業をやった伝説の高校教師です。

相模台工業高校の職員室で机を並べていろいろな事を教わり、特に野外フィールドワーク授業のノウハウは感動すら覚えました。広島さんが、職員室で授業の合間に出版社向けの原稿を周囲の眼など気にもせず書きまくっていた時、「丹沢のガイドブックに歴史情報も書き加えたいんだけれど、城川さん、日本の宗教思想史専門だったら八菅や丹沢の山伏について調べといてよ」。その言葉が遺言のようになりました。その年1997年(平成9)夏、ヒマラヤ遠征で、登頂成功後のベースキャンプを大きな雪崩が襲い、隊員の仲間とともに亡くなりました。合掌。

それから20年後、第38回日本山岳修験学会山北・丹沢学術大会(2017)で「聖護院蔵『相州八菅山付属修行所方角道法記』と入峰空間考」というタイトルで研究発表をいたしました。その内容は「「相模の国峰」再考-相州愛甲郡八菅山付属修行所方角道法記』と『相州八菅山書上』」(『山岳修験』第62号)という論文になっています。
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広島さんの遺言の約束を一つ果たしたような気がしたのでした。

ところで、今年3月5日から予定されていた日本山岳修験学会第41回 富士山学術大会が諸般の事情により残念ながらオンライン開催に変更されました。その研究発表の中に5年前の自分の発表と全く同じタイトルを発見!びっくり仰天、しかも和歌山熊野の山本先生!とても楽しみです。ただ、発表日の3/6(日)は万象房の仕事をしながらになってしまったので、拝聴出来るかどうかが微妙なところです。

☆3/2追記:同じタイトルだったのは学会事務局の作業ミスによるものと判明いたしました。山本先生のご発表正式タイトルは「那智参詣曼荼羅再考」でした。どうも以前の書類を上書きしながら作業をしているうちに5年前の私のタイトルが残ってしまっていたらしいです。拍子抜けいたしました。

2022年2月14日 (月)

123ページの写真「ふたつはし」

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伊勢原市子易と大山町の境にあるこの「二ツ橋」という地名の初出が『廻国雑記』であることは、江戸時代『新編相模国風土記稿』上子安村の小名「ニツ橋」の条や現代の伊勢原市発行の史跡案内などでもわざわざ道興の歌を取り上げていることからも確かなのだろうと思います。

当時、二つの橋が「かけ並べ」てあった景観がどのようなものかは確かめようもありませんが、近代(現代?いつ道路が付け替えられたのかご存じの方がいらっしゃったら教えて下さい)の新道架橋工事の結果、今、二つの橋が旧道と新道に「かけ並べ」てあるというのはとても面白いと思って掲載した写真です。

この小流は「大久保沢」で大山川(鈴川)の支流です。その名前から、もとは大きな窪地の谷地形だったのかもしれないと思いました。

ところで、小流の名称は登山の沢登りの対象になっている沢ならば名前がすぐみつかりますが、なかなかわからない時は、神奈川県「土砂災害警戒区域・土砂災害特別警戒区域の法定図書など」で調べたりします。

この地図↓では、大久保沢に新旧2つの道路がかかっているのもよくわかります。
土砂災害警戒区域等指定図(渓流名:大久保沢)

なお、おまけ情報として、旧道の方には、安政三年の文字碑道祖神が立っています。

2022年2月 7日 (月)

122ページの写真「蓑笠の森」

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この神社の境内には聖護院門跡道興准后『廻国雑記』のこの歌碑があります。
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 蓑笠の社(『廻国雑記』では「森」)とて社頭ましまし
 けり しばらく法施し待りて
天下(あめのした)守らんための誓いとや ここにきやどる
 みのかさの杜

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『中井町誌』(1990)第2章「中井町の歴史」の蓑笠神社の項では、碑文の署名「松屋主人平興清録」を紹介して時代も誰かも不明という説明になっていたので、自分で撮影したこの写真を確認してみたのですが、よく見れば「興」ではなく「與」つまり「与清」ではないですか!これはかの有名な国学者 小山田与清だ!「松屋」も合ってる!とびっくり。

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町田市立図書館などは小山田与清『翻刻 筑井紀行』まで発行しています。即、中井町郷土資料館に、ぜひ郷土のためにも小山田与清研究者のためにも説明版などがあると喜ばれるのではという老婆心メールを送らせて頂きました。でも、もう気付いていらっしゃるかもしれませんが。

この神社に江戸時代までは存在していた天正11年(1583)の棟札の図像が『新編相模国風土記稿』に掲載されています。『中井町誌』でも注目して同時代史料や旧家の歴史も踏まえた上で分析していて参考になります。ただ、『風土記稿』の写し方がどこまで正確かは陸軍文庫本・内閣文庫本・刊行本を見比べないとわからないのですが、とりあえず活字にしてみました。原本の陸軍文庫本を見る機会があったら追って修正します。

ここで、今まで誤解されていたと思われるのが「道師宗憲寺 別當 三光院」のところで、宗憲寺(土屋村、平塚市)の別当(寺院の長)の三光院という僧侶が土屋村からやって来て導師を務めたと読むべきで、この頃から蓑笠明神の別当が三光院だった確証はないという事です。この三光院、またはその後継者は、その後、井ノ口村に引っ越してきて江戸時代は代々蓑笠明神の別当を務めたという理解をすべきだと思います。江戸時代後期に生まれた「別当寺」という新造語には要注意。「別当」は本来個人にかかる肩書です。
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 (種字アン?) 道師宗憲寺 別當 三光院

   中村外記奉加助□□□
   □ 九良男女貴族□
   同図書助六済衆

   金子和泉守□□□□
   若狭守
   定使□□□

 聖主聖主天中天迦陵頻伽聲

(種字バーンク?)奉修覆社頭壹宇処本願禰宜

 哀愍衆生者我等今敬禮 大工 高奈治部左衛門

 御前様壱貫五百文
 此外 上下太刀□□當代官澤野佐渡守五百文

   尾上図書助□□□□
   賀藤十兵衛

    同名□□□ 天正十一暦癸未二日敬白

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その昔、通勤途中に4年間は毎日この蓑笠神社の前を通っていました。運転免許も取り立てで、まだ二宮と秦野をつなぐバイパスも無かったので、細い県道をおっかなびっくり運転して車に慣れたのでした。途中、井ノ口のバス停で当時の職場の二宮高校の生徒が本数の少ないバスに間に合わず大遅刻決定で途方に暮れているのを発見し、乗せてあげたことも実は何度か。今だったら職場で怒られてしまうのかしら。

2022年2月 4日 (金)

119ページの写真「行者ヶ岳と鎖場」

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日向山霊山寺(日向薬師)の坊中に伝わった『峯中記略扣 常蓮坊』には行者ヶ岳での修行についてこのように記録されています。
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大キナル岩ノ上ニ役ノ行者有ココニ札納法示祓シ
是ヨリ左ニ付下ルト新客ノゾキノ岩有
是ニ新客ノ腰縄ヲ付ミセル也

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大峰奥駈の新客修行の記憶がまだ新しい頃、この行者ヶ岳「ノゾキノ岩」の記述は、山上ヶ岳表行場「西の覗」や裏行場「平等岩」の超緊張の修行が蘇って、思わずどの岩だ?と探さずにはいられませんでした。

すでに崩落したり地形が変ってしまっている可能性もあるので、これは絶対探し当てられない妄想の世界ですが、学術研究論文ではまさか載せられないけれど一般向けの書籍ならば読者の理解の一助としてイメージ写真的に良いかなと判断し、この筆者の妄想を『丹沢の行者道を歩く』(白山書房 2005)ではかつて掲載いたしました。それがこちらです。

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