116ページの写真「不動ノ峰から蛭ヶ岳への尾根筋」
「不動ノ峰」は、日向山霊山寺の山伏が「宿」(キャンプ地)としていた不動尊を祭る「神前ノ平地」(『峯中記略扣 常蓮坊』)、また、文化二年(1805)の佐藤さんたちが「不動嶽」と呼んでいた「イタツテ平チ也ル所」(『黒尊佛山方之事』)、つまり「不動ノ平」を登り詰めた峰ということで明治以降そう命名されたのだと思います。「不動ノ平」(「神前ノ平地」「不動嶽」)については22ページの写真「不動ノ平」でも触れました。
この写真は、2016年8月13日6時48分撮影というデータになっていました。宮ヶ瀬湖(清川村)から丹沢湖(山北町)まで歩く調査撮影山行。お盆の時ぐらいしかじっくり山に入る暇がなかった頃で、その時のレポートはコチラ↓
https://banshowboh.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/2016-12df.html
その頃、本を書くつもりだったのか、とびっくり。それどころか次々に新出史料が発見されて論文書きで精一杯になることをまだ知らない自分。それにしてもこの一枚は『黒尊佛山方之事』の記述がピンとくる景観写真だと思うのです。
この時の成果は拙稿「丹沢山地・蛭ヶ岳と山岳修行者の空間認識」『山岳修験』第58号 日本山岳修験学会 2016をご参照ください。
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