101ページの絵図「江戸時代の松原明神と玉瀧坊」
拙い手書きの絵図で恥ずかしいのですが、さすがに著作権上、『東海道分間延絵図』を写真複写してある東京美術本(児玉幸多監修 1978)をそのまま使う訳にもいきませんし、この印刷本では60.6%に縮尺されているため細かい字が読み取れないので、松原明神と玉瀧坊のあたりだけがわかるように自分で描いてみました。
『東海道分間延絵図』は『五海道其外分間延絵図並見取絵図』のうちの一つで、寛政十二年(1800)に幕府の事業として五街道をはじめ脇街道を含めた宿村で調査が始まったことがわかっています。詳しくは以下参照。
※杉山正司「『五街道分間延絵図』と『宿村大概帳』の制作」『郵政博物館研究紀要』第6号(2015)
※白井哲哉『日本近世地誌編纂史研究』思文閣出版(2004)
つまり、当時の国家の公式の縮尺1/1800絵図で、詳細で正確なところが魅力なのです。
玉瀧坊は、江戸時代が終わるとともに廃寺となり、松原明神も松原神社となって担い手も変わりました。しかし、昔のことがわからなくなってしまった現代になってもこの公式絵図が視覚的に当時を伝えてくれます。今の小田原市本町2丁目11番地~12番地一帯でしょうか。
30年近く前、まだ自分も不勉強だった頃、松原神社を訪ねて、昔の玉瀧坊はどこにあったのでしょう?などと質問させて頂いたことがありました。よくそういう質問をされるのですがわかりません、という事でした。現代の「神社」一般に(江戸時代以前の)昔のことを伺うのは無理なことが多いんだなあと実感した次第です。
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