82ページの図 「塔辻」地名 文政十二年 植田孟縉「鎌倉大概図」(『鎌倉攬勝考』)から作図
江戸時代絵画目録という素晴らしいウェブページがあります。
http://andoh.la.coocan.jp
制作されていた方は、2020年にお亡くなりになったそうです(合掌)。このページを拝見して、植田孟縉という人物は画家としても一流の方だったことがよくわかりました。故人に深く御礼申し上げます。
そして、このウェブページの制作者も『新編相模国風土記稿』陸軍文庫本の複写を入手して公開していらっしゃっることに最近気付きました。ただし「稿本」と認識していらしたようですが。陸軍文庫本の存在に気付いていなかったのは神奈川県内のみかしらん?
それにしても、八王子千人同心組頭 植田孟縉(うえだもうしん)は偉人です。一流のフィールドワーカーであり、研究者であり、画家です。手がけた仕事は、この『鎌倉攬勝考』をはじめ、『新編武蔵国風土記稿』(多摩郡 他)・『武蔵名勝図会』(文政3年、1820)・『日光山志』(文政7年、1824、刊行は天保8年)、そしておそらく『新編相模国風土記稿』津久井県もと言われております。八王子周辺はもとより、鎌倉でも、栃木県日光でも、近世地誌編纂の達人として必ず名前が出てきます。
この『鎌倉攬勝考』の挿絵を植田孟縉が自分で描いていたかは存じませんが(ご存じの方は教えて下さい)、全く人任せとは思えません。恐れ多いとは思いましたが、ここでは「塔ノ辻」の地名表記がわかりやすいようにトレースさせて頂きました。
なお、『鎌倉攬勝考』では、「塔ノ辻」は「小町の北堺」(古えは大倉辻)、「建長寺、圓覺寺の門前と淨智寺の前」、「雪の下又鉄觀音の前」、「佐々目谷の東南の路端に二ツ」、の計7つが上げられています。現在では、鎌倉青年団が昭和初期に立てた佐々目ヶ谷の「塔ノ辻」石碑が知られています。ここでは本書でも触れた染屋太郎伝説。もとは鎌倉の市街地と郊外の境界にたてられた標石ではないかと歴史研究者は推測しています(奥富敬之『鎌倉史跡辞典』新人物往来社 1997)。いずれにしても、中世の段階でも本来の意味が不明になっていたところを勧進の山伏か僧に目をつけられて勧進唱導のネタにされたのだと思います。
« 79ページの写真「子易明神の社叢と大山」 | トップページ | 日本山岳修験学会『山岳修験』第67号「『相州大住郡日向薬師縁起』仮名交り文縁起について」 »
« 79ページの写真「子易明神の社叢と大山」 | トップページ | 日本山岳修験学会『山岳修験』第67号「『相州大住郡日向薬師縁起』仮名交り文縁起について」 »
コメント