64ページの写真「大山の女人禁制碑」
天保6年(1835)、相模国大住郡蓑毛村(現在の秦野市蓑毛)は『新編相模国風土記稿』編纂事業を行っていた幕府地誌調所に『地誌御調書上帳』を提出しています。
(『秦野市史』近世資料編1 1985、青山孝慈・青山京子編『相模国村明細帳集成』第二巻 岩田書院 2001、白井哲哉『日本近世地誌編纂史研究』思文閣 2004)
提出先は「地誌御用御出役 水野弥右衛門様 朝岡伝右衛門様」、提出者は蓑毛村の「百姓代」一人・「組頭」三人・「修験 密正院」・「年番名主」、計6名の連名です。その中にこうあります。
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一 坂之儀者、大日堂ゟ石尊道迄登り五拾三町、但、廿八町目ゟ追分有之、不動尊道界迄二町、
一 木戸壱ヶ所 高サ六尺八寸 横幅六尺、
右者石尊宮・不動尊追分ニ有之候、石尊宮西口一ノ木戸、
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つまり、蓑毛から登って53町で大山寺不動堂(現在の阿夫利神社下社)から石尊(山頂)を目指すメインの登山道と合流。ただし、その手前の28町目から分かれ道があり不動尊(現在の阿夫利神社下社)道境まで2町、としています。
そして、木戸は石尊宮(山頂)と不動尊(現在の阿夫利神社下社)の分かれ道にあって、石尊宮(山頂)西口の一の木戸。
まぎれもなく、女人禁制碑と二十八町目の石碑が立っているこの場所です。今「かごや道」と呼ばれているのが蓑毛から大山寺不動堂境内(現在の阿夫利神社下社)への古い道。この道は蓑毛の人にとっては「不動尊道」だったようです。二十八町目の石碑は小田原千度小路講中の奉納。美味しい魚と蒲鉾の匂いが漂ってきそうな石碑ですなあ。
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