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2021年8月

2021年8月31日 (火)

73ページの鳥瞰図「大山(大磯高麗山上空1700㍍から)」

P73_ohyama

大山のもと大山寺境内(現阿夫利神社、山頂~追分)と門前町を中心にした鳥瞰図です。

鳥瞰図の作成についてはこちら↓で詳しく触れています。
https://banshowboh.cocolog-nifty.com/book2020/2021/01/post-9c5dee.html

2021年8月29日 (日)

70ページの写真「江ノ島淵」

P70_enoshimabuchi

2004年10月18日に愛川町半原・田代境にある塩川の谷に調査フィールドワークに入りました。目的は2つ。

まず、塩川の支流大椚沢の堰堤をよじ登ってその奥にある「金剛滝」(蜀江滝)を写真におさめること。これについては、29ページの写真「金剛滝」「胎蔵界滝」を参照してください。

もう一つは塩川滝の上流にある江ノ島淵を探すこと。塩川滝の手前の左側の斜面の獣道程度の踏み跡をここでもよじ登って塩川滝の上に出てそこから遡ってみました。ところがそれらしい風情のある滝が複数あって、このうちのどれかだと確信しましたが、特定は出来ませんでした。
P70_enoshimabuchi2 P70_enoshimabuchi1

その後、この半原が地元の小島瓔禮先生(琉球大学名誉教授)から、地元山岳会のベテランの皆さんに案内されて江ノ島淵に行ってきたというお話を伺って、それはぜひ写真を拝見したいと思っていたら、「江ノ島淵追想」上・下『黄色いチラシ』平成21年(2009)5月1日号・6月1日号(荻田印刷)という文章を発表してくださいました。

小島先生たちは上流の林道からロープなども使って降りてきたそうです。その時のリーダー佐々木力夫さん(故人)撮影の江ノ島淵の写真を拝見して、あれだったか!と判断したわけです。昔の様子を知る佐々木さんの説明も紹介されています。昔は淵がもっと深く大きく淵の中で水が渦を巻いていたそうです。さらに関東大震災前の様子は数メートル四方の淵だったのではないかと小島先生も推測しています。

なお、江戸時代の江ノ島淵の伝承については『新編相模国風土記稿』が伝えているので、その原本もご紹介。
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2021年8月24日 (火)

68ページの写真「山梨県笛吹市御坂町天神社で今も行われる石尊祭の唱文石碑」

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この写真は、2020年3月5日に山梨県笛吹市を訪ねた時に撮影してきました。※その時の日記ブログ

この石碑にはこう記されています。
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懺悔懺悔 六根清浄
大峰八大金剛童子
大山大聖不動明王
南無石尊大権現
大天狗小天狗
哀愍納受 一龍礼拝
帰命頂礼

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ここでは山念仏に由来する大山の唱え言葉が文字だけではなく現在も音声で聞けるのが素晴らしいです。もちろんこの特殊な祭礼に合わせて唱えるスピードも調子も変化しているようですが、「大天狗・小天狗」は「おおてんぐ・こてんぐ」ではなく「だいてんぐ・しょうてんぐ」だというのもよくわかります。

毎年8月23日に行われるこのお祭りを生で拝見したことはまだありませんが(今年は緊急事態宣言下で中止)、笛吹市を代表するお祭りの一つとして市の公式観光情報などでも解説や紹介がされています。動画もいくつもYouTubeに上がっている中でFuefukiYamanashiさん公開の動画を拝借してご紹介。復活したらいつか伺ってみたい。

2021年8月16日 (月)

66ページの写真「伊勢原市板戸の首無し神変大菩薩像(役行者像)」

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この役行者像の存在は、2015年8月に伊勢原市で行われた私の講演の後、ご参加者のお一人が教えて下さいました。
https://banshowboh.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/822-6b20.html

台座にはこう記されています。
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(右面)文化拾癸酉年 八月吉祥日
(正面)神變大菩薩
(左面)平野氏

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この空き地には、他に、おそらく明治期に建てられた円柱があって、そこにはこの敷地の当時の所有者ご一族と思われる方々のこの地を離れてからの一族史と和歌が記されています。

伊勢原市文化財協会編『伊勢原市石造物調査報告書 第6集 伊勢原地区』(伊勢原市教育委員会、2019)にこの石造物の詳細が出ているかなあと思ったのですが、何か理由があるのか2つとも載っていませんでした。もしや、この空き地を調べてはいけなかったのかしらん?そうだったとしたらごめんなさい。

神奈川県では、野ざらしの石造役行者像はめったに残っていません。木像ならば、江戸時代まで山伏も所属していた寺社の堂内やご先祖が山伏だったお宅などに残っていて珍しくはありません。ただ、いわゆる石仏としての近世以前の現存する役行者像は、飯山白山(厚木市・清川村)と荻野神社(厚木市)以外はこれまで知りませんでした。もし、他にもご存じの方がいらっしゃったらぜひ教えて下さい。

2021年8月13日 (金)

64ページの写真「大山の女人禁制碑」

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天保6年(1835)、相模国大住郡蓑毛村(現在の秦野市蓑毛)は『新編相模国風土記稿』編纂事業を行っていた幕府地誌調所に『地誌御調書上帳』を提出しています。
(『秦野市史』近世資料編1 1985、青山孝慈・青山京子編『相模国村明細帳集成』第二巻 岩田書院 2001、白井哲哉『日本近世地誌編纂史研究』思文閣 2004)

提出先は「地誌御用御出役 水野弥右衛門様 朝岡伝右衛門様」、提出者は蓑毛村の「百姓代」一人・「組頭」三人・「修験 密正院」・「年番名主」、計6名の連名です。その中にこうあります。
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・・・・・・・・

一 坂之儀者、大日堂ゟ石尊道迄登り五拾三町、但、廿八町目ゟ追分有之、不動尊道界迄二町、

一 木戸壱ヶ所 高サ六尺八寸 横幅六尺、
   右者石尊宮・不動尊追分ニ有之候、石尊宮西口一ノ木戸、

・・・・・・・・

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つまり、蓑毛から登って53町で大山寺不動堂(現在の阿夫利神社下社)から石尊(山頂)を目指すメインの登山道と合流。ただし、その手前の28町目から分かれ道があり不動尊(現在の阿夫利神社下社)道境まで2町、としています。

そして、木戸は石尊宮(山頂)と不動尊(現在の阿夫利神社下社)の分かれ道にあって、石尊宮(山頂)西口の一の木戸。

まぎれもなく、女人禁制碑と二十八町目の石碑が立っているこの場所です。今「かごや道」と呼ばれているのが蓑毛から大山寺不動堂境内(現在の阿夫利神社下社)への古い道。この道は蓑毛の人にとっては「不動尊道」だったようです。二十八町目の石碑は小田原千度小路講中の奉納。美味しい魚と蒲鉾の匂いが漂ってきそうな石碑ですなあ。

2021年8月10日 (火)

63ページの写真「大峰山上ケ岳の女人禁制門」

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大峰の「女人結界門」は時代とともに標高の高いところへ移っています。吉野から登ってくると標高800mほどのところに「従是女人結界」という江戸時代の石碑が立っています。昭和45年(1970)まではここだったそうです。現在の写真の場所は標高1211mのあたりです。洞川から登るルートの女人結界門が上へ移動することに合わせた対応のようです。林業と観光業に従事する女性の便宜をはかるため、女性登山者への柔軟な対応、などがその理由だそうです。詳しくは鈴木正崇先生の『女人禁制』(吉川弘文館 2002)をお読み下さい。

大峰山上ケ岳の女人禁制は、明治政府の神仏分離政策の進行にともない全国霊山の神社化が進み、明治5年(1872)の女人結界廃止令で女性解禁が全国霊山で次第に進んでいった時代になっても、地域が団結してあくまでもその流れにさからって続けられている日本でもまれにみる1300年の伝統文化と言われています。

ただ、主要な修験道教団は、21世紀、そして世界遺産登録「紀伊山地の霊場と参詣道」(2004)に合わせてこの伝統文化を変えようと働きかけていました。しかし、その説得と審議の最中、山麓地域住民や信徒の方々を激怒させるような強行登山事件があって、結局話はまとまらずこの伝統文化は維持されることになりました。修行と祈りの仏教である修験道教団は、葬式檀家を持って経済的に安泰な仏教教団とは違って、トップダウンで物事を決めるような事は出来ないと思います。修行エリアを支える地域と信徒や在俗の山伏さんをとにかく大切にしています。

2012年、私は、奈良県天川村で、偶然その地域のまとめ役をしていらっしゃる方と2人で話をしていて目の前で衝撃の発言を聞いたことがあります。ついさっきまでご一緒していたある修験道教団のご門主で全国仏教会や宗教学術研究の分野でもご高名な先生(山伏)のお名前を出した途端、その方の優しい形相が一瞬変わって「あの先生は女性解放論者だからバチがあたったんだ!」と言われました。宗教的「タブー」意識の凄みを初めて目の前で見せつけられて、ただただ絶句いたしました。

2021年8月 5日 (木)

62ページの写真「大雄山の森」

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山登りをする人にとっては、大雄山最乗寺は箱根明神ヶ岳の登山口・下山口というイメージも強いのではないでしょうか。自分自身も高校生を連れてここから登ったりここへ下ったり、子供を連れてここから登って箱根宮城野に下ったり、と何度もこのコースを利用していました。

ただ一度、万象房のレクリエーションハイキングで、皆様をお連れして箱根仙石原から登って外輪山を縦走して大雄山最乗寺に下ろうとした年末の快晴の日、あまりの展望の良さに絶景の写真を皆さんと撮りすぎたりで下山が遅くなり日没!漆黒の中、山道をあきらめて林道を遠回りして下山した万象房明神ヶ岳・大雄山遭難事件2016を引き起こした張本人でもあります。歩きなれたコースでも舐めてはいけないのです。

樹齢数百年・幹回り数メートル以上の巨木もそびえているこの「大雄山杉林」(県指定天然記念物、約26ヘクタール、約2万本の杉)は南関東では別格の規模を持つ杉を中心とした寺社林です。その広さも本数も別格です。最乗寺一山内の掟とそれを公的に承認してきた公権力。そして、杉苗奉納の古い歴史。まさに圧倒される杉の森です。

「慶安元年 最乗寺開闢ならびに九人老人の機縁」『南足柄市史8 別編 寺社・文化財』(1990)
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‥‥‥

一 山中草木、総而猥不可切事、
一 於本木截者、可截頸事、
一 於截枝者、可截手脚事、
一 於截葉者、可截指事、
一 於刈草者、可截鬚髪事、
古人道豈不見麼、莫山中松枝切、枝々葉々祖翁皮肉云云、

 未(宝徳三年:1451)
  五月日  宗能(最乗寺第五世春屋宗能)判
‥‥‥

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「慶安元年八月 最乗寺境内・門前・山林・竹木等免除につき徳川家光朱印状写」『南足柄市史8 別編 寺社・文化財』(1990)
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相模国足柄上郡関本村最乗寺境内・門前・山林・竹木等事、如有来免除、永不可有相違之状如件、
  慶安元年(1648)八月十七日
   家光御判

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神奈川県で杉を含む寺社林としては他に「大山の原生林」(県指定天然記念物、16.4ヘクタール)、箱根神社などがあります。大山は巨木のスギもありますがモミの原生林が中心で、箱根神社は特に天然記念物指定されているわけではなく「ヒメシャラの純林」(県指定天然記念物)が公式には指定されています。

東京都でも「髙尾山のスギ並木」(都指定天然記念物、十数本の杉)や「御嶽神社参道の杉並木」(青梅市指定天然記念物、数百本の杉)などがあり、樹齢数百年の巨木があります。

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