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2021年7月

2021年7月29日 (木)

60ページの写真「大山と平沢御嶽神社の参道」

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ここ秦野市平沢に所在する御嶽神社の創建は相当に古いと言われていますが、詳しいことは何もわかっていません。ただ、参道「御嶽道(みたけどー)」という地名、樹齢800年とも言われている境内の巨木、などから考えて、中世以前にさかのぼるのは確実だろうと思われます。

以前神社に掲示されていた説明書きには、「建久三年(1192)の頃より神社前の参道を御嶽道と称し、…」、「明徳三年 (1392)四六貫五百文の当社家領が寄進されている」などと記されていました。その根拠となる同時代史料はありませんが、それくらいの古さは感じられます。

ただ、この「四六貫五百文」は戦国北条氏の『小田原衆所領役帳』にある「一、大森殿 四拾六貫五百文 中郡 平沢社家分」から引っ張ってきた数字のような気もいたします。つまり、小田原北条氏に滅ぼされた国衆大森氏の子孫の誰かが北条氏のもとで平沢社家分の領主だったということでしょうか。少なくとも社領では全くないと思います。そしてこの『小田原衆所領役帳』には御馬廻衆の所領として「一、中村平四郎 弐拾八貫文 中郡 平沢寺分」ともあります。

「社家分」と「寺分」、平沢村は江戸時代に入ってからもそれぞれに別の領主がいて分かれていました。この「社家分」と「寺分」は御嶽蔵王権現社の祭祀を行う担当者に神主と僧侶の両者がいて、戦国時代の段階ですでに神仏分離的な状況が始まっていて生まれた地名呼称ではないかと推測します。

それでも、『秦野市史』(第4章第3節 平沢村)によれば、享和元年(1801)になっても、遷宮の儀式についてその両者(神主と天台宗西光寺)は争いながらも役割分担をしながら行っていたことがわかっています。神仏習合(最近は融合とも)状態は続いていました。

神社の説明書きにはさらに「慶長十三年(1608)踊宮鈴張の地に家康公鷹狩の節当社に参拝、社殿の 改修を命じた。翌慶長十四年(1609)に改修、…… 現在の本殿はその時のもので神職は白川家の配下であった。宝永八年(1711)二月十三日宗源宣旨 により正一位御嶽蔵王権現と称えられ(当社古文書)……」などともありました。

家康が鷹狩に来たかどうかはともかくとして、慶長十三年(1608)に神職が白川家門人だったはずはありません。これは嘘です。相模国で白川家配下の神職の初出は寛政年間です。当の白川家の『白川家門人帳』にはこうあります。
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寛政九巳年(1797)二月
一、入 門
(中奥御小姓、土屋山城守知行所)
 大住郡 平澤村 御嶽宮神主 草山兵庫  

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なので、宝永八年(1711)二月十三日宗源宣旨というのもありえません。しかも、当時、宗源宣旨は白川家ではなく神職の本所 吉田家が全国の神職に対して行っていたものです。このように神社の説明書きは作り話多しです(場合によっては仏閣も)。たとえ信仰と信心の問題とは言え、宗教者も氏子の皆さんも人文科学の最新の研究成果に目を配って欲しいものです。

ところで、現在はこの御嶽神社の神主家が明治時代に勧請した出雲大社の方が大きく目立っています。歴史ある御嶽道の入口の交差点も「出雲大社入口」になってしまいました。

かつて、神奈川県立相模台工業高校では、社会科の授業として、一年次全科全クラスが、クラス毎に秦野盆地を歩き回る野外授業を行っていました。2学期末の社会科のテストの内容は100%秦野(地理・歴史・信仰・産業・経済)です。事前学習からレポート提出まで、これをこなさなければ単位は出さない進級させないという通過儀礼のような気合の2カ月半。この御嶽神社の境内をお借りして高校生諸君と取っていたお昼のお弁当タイムが懐かしいです。3クラス担当していると週に3回も来ていました。自分の高校教師時代の経験の中で唯一無二最高の授業でした。

2021年7月27日 (火)

59ページの写真「吉野と蔵王堂の周辺(奈良県吉野町)」

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吉野と言えば、7世紀の吉野離宮以来、数々の歴史的大事件の舞台でもあり、日本を代表する歌枕の地です。しかも大峰奥駈道の起点終点として山伏にとっての重要な聖地、つまり全国にある「蔵王」や「御嶽・御岳」といった地名の発信地であります。そして古代以来の桜の名所です。

一生に一度で良いから桜の季節に吉野に行ってみたかったのです。2003年の4月、聖護院の葛城修行を終え京都に戻った後、一人で吉野まで遠征フィールドワークに出かけました。近鉄吉野線吉野駅を降り立つと雨でした。
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蔵王堂にお参りして、時間の許す限り大峰奥駈道の入口まで登ってみようと上千本まで登ってくると奇跡的に雨が上がり、満開が近付いた中千本の桜がまだ咲き始めの上千本から見渡すことが出来ました。

そして、山の端に残った雨上がりの雲が向こうに見えました。
この歌の世界でしょう!
◆「おしなべて花の盛りになりにけり 山の端ごとにかかる白雲」(西行『山家集』平安時代末)
どこもかしこも花盛りだ。どの山の端にも白雲がかかっている。

◆「吉野山梢の花を見し日より 心は身にも添わずなりにき」(〃)
吉野山の花をはるか遠くから望み見たその日から、私の心は花でいっぱいになって落ち着かない。

◆「もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし」(行尊『金葉和歌集』平安時代後期)
山桜よ、私がお前を美しいと思うように、お前も私をそのように見ておくれ。ここ大峰山中では、修行する私の心を知る者はお前の他にいないのだから。

解釈は全部西澤先生のご著書からの引用です。西澤美仁『西行 魂の旅路』(角川学芸出版社 2010)。以前、この本知ってる?と西澤先生から直接勧められたのですぐ購入して重宝しています。

2021年7月22日 (木)

58ページの楽譜「大峰で現在も唱えられる六根清浄の一例」

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自分は、兼業音楽家とは言え一応音楽も仕事としているので、山伏の修行や儀式の中に立ち現れてくる旋律やリズム、そして倍音の響きがその場面場面で効果的な役割を果たしていることにも注目します。20年近く前は、小さなICレコーダーはもちろん常に持っていて、電車の中ではなかなか覚えられないお経とか真言を反復記憶、修行中は個人的に音を記録。

読経や真言の声の重なり合いと自然に生まれる旋律とリズム、法螺の響き(上手下手の差はものすごくあり)、採灯護摩の結界の中で声を合わせて唱えられる日本音楽ラップのような修験懺法(せんぽう=懺悔の儀式)、などなどびっくりしたり感心したりの音楽世界が山伏の世界にもたくさんあります。

現在では、山伏も含めて日本仏教の声の力に焦点を当てた総合的な研究(大内典『仏教の声の技 ―悟りの身体性―』法蔵館 2016)も行われています。

ただ、大峰修行では、朝4時から夕方4時まで毎日12時間ひたすら険しい山道と行所を歩きそして勤行の繰り返しで、頭の中に一番沁みついたのはこの旋律と言葉でした。

しかも、先達によって実は微妙に違います。基本フレーズは全国の霊山でも同じようですが独自性もないわけではありません。個人的に大峰で感動したのは、この山念仏の音頭を伽耶院(がやいん、兵庫県三木市)ご住職の岡本孝道先生がとられた時で、その音程の正確さと声の張り、そして2回目の「六根清浄」(つまり4小節目)を低く入るメロディーで1回目(2小節目)と変えるヴァリエーションありなんだと気付かせて下さいました。

それにしても残念なのは、丹沢山地に響いていた中世近世の山伏の山念仏はどんなだったのかもうわからない、ということです。

2021年7月20日 (火)

56ページの鳥瞰図「八菅山伏の行場(南大沢駅上空2500mから)」

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これもカシミール(https://www.kashmir3d.com)と山旅倶楽部(http://www.yamatabi.net/main/index.html)を使用して作成。いつものように上空からは起伏の差がわかりにくくなってしまうのでタテ2倍強調です。

30あった行所のうち、従来言われていた行所位置が聖護院蔵『相州愛甲郡八菅山付属修行所方角道法記』の記述によって何か所か再検討が必要になっているのと、この視点からは見えない行所や隣接していて地図上で詰まってしまうところは省略しています。ご存じの通り最終行所30番は大山寺本堂(不動堂)、つまり現在の阿夫利神社下社の位置です。

3番屋形山は採石によって山そのものが消滅してしまったことがよくわかります。

八菅山伏の国峰修行30行所については、本書以外に今までに以下の諸論考が発表されています。
・拙稿「「相模の国峰」再考-『相州愛甲郡八菅山付属修行所方角道法記』と『相州八菅山書上』-」(『山岳修験』第62号、2018)
・拙著『丹沢の行者道を歩く』(白山書房、2005)※『相州愛甲郡八菅山付属修行所方角道法記』に照らして要修正検討
・宮家準研究室『修験集落八菅山』(愛川町、1978)※『相州愛甲郡八菅山付属修行所方角道法記』に照らして要修正検討

という訳で、現在、『相州愛甲郡八菅山付属修行所方角道法記』を分析しながら八菅山伏の行所を踏査して下さる意欲のある奇特なフィールドワーカーの出現を期待しております。

55ページの写真「正住寺(清川村煤ヶ谷)の碑伝」

2020年10月 8日 (木)「表紙の写真その3 八菅山伏安永5年の碑伝」としてご紹介済みです。

https://banshowboh.cocolog-nifty.com/book2020/2020/10/post-4b48de.html

2021年7月12日 (月)

53ページの地図「方角行所地図」(聖護院蔵『相州愛甲郡八菅山付属修行所方角道法記』より)

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八菅山光勝寺が江戸時代に本山だった京都の聖護院に提出した『相州愛甲郡八菅山付属修行所方角道法記』については、2018年の私の論文「「相模の国峰」再考-『相州愛甲郡八菅山付属修行所方角道法記』と『相州八菅山書上』-」(『山岳修験』第62号)に全文を活字化して掲載しておりますので、ぜひ読んで頂ければと思います。まだ岩田書院で販売されています。また、神奈川県内丹沢山麓の市町村図書館や県立図書館にはあるはずです。

京都まで出張して『相州愛甲郡八菅山付属修行所方角道法記』を初めて目にしたのは2017年4月の桜が満開の時でした。緊急事態宣言下のこんなご時世では、遠くまで出かけた調査フィールドワークで目にした風景が無性に懐かしく感じられます。その時の日記ブログ↓
https://banshowboh.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-2184.html

こんな古文書が見つかったのも首藤善樹先生の調査とご研究のたまものです。なんと33年間も聖護院の古文書を調査されたそう!昭和52年(1977)から平成22年(2010)までです。八菅山伏についてさらに深く知りたい方は首藤先生のこの2冊も必読ですぞ。首藤善樹『修験道聖護院史要覧』(岩田書院 2015)、同『修験道聖護院史辞典』(岩田書院 2014)。あとがきにこのようなことも書いていらっしゃいます。
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 最初の印象は、何十畳もある広い部屋に古文書が乱雑に山積みにされ、その気力が萎えるほどの分量を見て、どうすればいいのだろう、今後はどうなるだろうということであった。

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この中に『相州愛甲郡八菅山付属修行所方角道法記』もあったのです。

2021年7月 6日 (火)

2004年5月の熱海伊豆山

https://banshowboh.cocolog-nifty.com/blog/2021/07/post-ab1e32.html

2021年7月 1日 (木)

51ページの写真「現在の八菅神社で行われる採灯護摩」

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八菅神社の採灯護摩は毎年の例大祭3/27-3/28。祭礼日は江戸時代の八菅山光勝寺国峰修行の祭礼日2/20-2/21の季節感をもとに新暦で受け継がれているのだろうと推測します。かつては近代の農村祭礼にはお決まりの競馬なども行われていたようです。

1972年(昭和47)に「八菅山修験道旧跡」が愛川町文化財として指定されました。これを機に八菅神社の祭礼で採灯護摩と神木登が復活したそうです。(※柄沢行雄「近代の八菅山と八菅神社」、和崎春日「現代の八菅山」『修験集落八菅山』慶應義塾大学宮家準研究室、愛川町教育委員会 1978)

八菅神社発行『八菅山 七社権現 八菅神社略縁起』(1979)にも、「3月27日・28日 例大祭(神木登 採灯護摩)」とあります。神木登についてはその後行われなくなったようです。

それにしても、一旦無くなって、しかも寺院から神社へと変わって100年も経ってしまった行事をまた復活させ継続させるというのは大変なご苦労があるものと推察いたします。八菅には伊勢原市日向と違って古文書が相当数現存していますが、全院坊はやはり明治維新とともに還俗しました。100年後でも祭礼復活に心血を注ごうという心得のある方がいらっしゃったのでしょうが、やはり採灯護摩を修行する山外の僧侶や山伏の皆さんのサポートが欠かせなかったと思います。

1872年(明治5)修験宗廃止令で日本全国の山伏は一旦消滅しましたが、中には修行が復活した地域もあります。奈良県吉野では神社化された金峰山寺が1886年(明治19)に仏寺に戻り蔵王権現の姿を拝することが出来るようになりました。山形県羽黒山のように神社化したまま経文を祝詞などにアレンジした新しい形で修行を続けているところもあります。

神奈川県では、還俗せず僧として修験の伝統を守った寺院もありますが、丹沢山地周辺で修行していた山伏はすべて還俗し修験寺は消滅。ただ、江戸時代に修験寺ではなかった密教系寺院の中に、明治以降、修験的な活動に参入した例がかなりあるようです。それは地域住民の信仰需要を受け止めるためにも必然だったのかもしれません。

江戸時代は、高野山(和歌山県)でも醍醐寺(京都府)でも山伏の山内での身分が低かったので、修験以外の正式の僧侶が山伏修行を目指すという例はあまりなかったと思います(中世以前はたくさんあります)。ところが、明治になり高野山では山伏は消滅しましたが、醍醐寺では色々と事情(※林先生のご論考参照:林淳「修験道研究の前夜」『修験道入門』岩田書院2015、「仏教と修験道」『現代思想 仏教を考える』2018)があって修験の復権を目指す活動が盛んになり社会的広報活動も始まりました。

社会的にも「日本仏教としての修験道」「普遍宗教としての修験道」といったプラスの評価が少しずつ認知されるようになったようです。戦前軍国主義国家による登山奨励が修験の社会的評価につながった可能性も鈴木正崇先生がどこかで述べていらっしゃったような?

戦後も、高尾山(八王子市)が昭和30年代頃から修験道を重視し修験の雰囲気一杯のお山へとヴァージョンアップされたように、山伏修行と修験道は近現代の社会では魅力的な文化遺産として評価が上がって来ていたのです。高度経済成長で大きく変貌しつつある日本の国土と社会に危機感を抱いた現代人も、「自然」と一体化する修行という「伝統文化」に魅力を感じないはずはありません。旧国鉄の「ディスカバージャパン」キャンペーンが現代人の心に響いた1970年代は祭礼の文化財化と肯定的評価も高まっていた時代です。(※阿南 透「高度経済成長期における都市祭礼の衰退と復活」『国立歴史民俗博物館研究報告』第207集 2018)

山伏が怪しい存在ではないと気付いてくれる時代がやっと到来したのだと思います。そして、八菅神社の採灯護摩復活に際しても、それを担う僧侶や山伏の皆さんが現代においても神奈川県エリアにたくさんいらっしゃるというのも奇跡的です。この行事が末永く続いていくことを切に祈ります。

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