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2021年6月20日 (日)

50ページの図「江戸時代の護摩壇」

P50_saitohgoma

この図は、大正3年(1914)から大正10年(1921)にかけて刊行された『日本大蔵経』に採録されている「修験道章疏」(全3巻)から引用しました。現在、『日本大蔵経』は国立国会図書館のデジタルライブラリーで公開もされています。

この「柴採燈護摩供行者堂図」は、宮家準編『修験道章疏解題』(国書刊行会 2000)によれば、峰順房斉賢が自ら入峰修行の際に見聞したままを記録したものだそうです。大峰の深仙をあずかる五鬼童(前鬼・後鬼の子孫の家柄)に伝来したものがもとになっているようです。

峰順房斉賢は佐渡島 相川(越後国雑太郡相川)の幕末の山伏で、明治の修験宗廃止令以降は修験道の記録をまとめたり修験道の再興のために奔走し、その活動はその子である牛窪弘善に受け継がれ(『佐渡相川郷土史事典』相川町史編纂委員会 2002)、貴重な修験道教学の資料を現代へつなげる役割を果たしました。

江戸時代の「さいとう」護摩は醍醐寺三宝院を棟梁と仰ぐ当山派は「柴灯」、聖護院を棟梁と仰ぐ本山派は「採灯」と表記していたので、その両派共同使用の護摩壇の記録として「柴採燈」と表記されています。

図の中を見てみても、右下の入口のところに両派が共有していたことがわかる以下のような説明書きがあります。
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〇於此入口当山輪房袈裟修験一人

〇於此入口本山綿房袈裟修験一人立合松明付火三返取遣遣渡火従入口所差入松明也

 但毎年当山方入峰護摩時本山方立合致火渡古例也

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ところで護摩は、「インドのサンスクリット語のホーマhoma(焼く、焚くの意)の音写です」(『日本国語大辞典』他、まぎれもない定説)。インド起源の儀式。そして「さいとう」は日本のオリジナルの儀式から生まれた言葉と考えられています。

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