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2021年6月

2021年6月28日 (月)

51ページの写真「葛城入峰の拠点中津川行者堂の護摩壇」

P51_nakatsugawa_goma

2003年(平成15)4月6日に初めて中津川行者堂に行きました。当時は和歌山県那賀郡粉河町中津川、近隣の町が合併して紀の川市が成立する前でした。聖護院の葛城修行。

神奈川県を早期退職したのが3月末日だったので、退職直後でした。前日に予定されていた友ヶ島修行が、春の嵐で船が欠航となり急遽予定変更、雨の中、紀三井寺巡拝に変わりました。友ヶ島修行をどうしても体感してみたかったのでとてもがっかりした記憶があります。もちろん紀三井寺(金剛宝寺護国院)も規模の大きい見どころのたくさんある素晴らしい観音霊場でした。

4月5日の夜、山伏衆は粉河寺門前の旅館 三笠館に宿泊、早朝から粉河寺諸堂を巡拝、主要なお堂の一つ一つで法螺・礼拝・真言・読経を繰り返します。それから紀ノ川の支流中津川を北にさかのぼって和泉山脈を標高300mほどまで登ると、中世の古い時代から続く葛城修行の聖地 中津川行者堂・中津川経塚・熊野神社があります。行者堂の前庭では11時から採灯大護摩供。この写真は護摩修行が終って山伏の餅まきが始まる前だと記憶しています。同行だった緋色の結袈裟の老山伏さんがお一人で印を結びながら祈祷していらっしゃいました。

中津川にも役行者に仕えた前鬼・後鬼の子孫と伝わる五つの家柄(「五鬼」)の方々が住んで伝統を守っていらっしゃいます。ただ、残念なことに1990年には平安仏を含む仏像数体が盗難に遭い、2011年には役行者・前鬼・後鬼像も盗難に遭うというという大事件がおきていて、和歌山県立博物館は2011年に中津川の文化財についての企画展を開催し、また同時に盗難文化財についての情報提供を呼び掛けています。

https://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/nakatugawa/nakatugawa-zuroku.pdf

2020年には日本遺産として「葛城修験-里人とともに守り伝える修験道はじまりの地」が認定され、中津川はその重要な構成要素となっています。
https://katsuragisyugen-nihonisan.com

2021年6月20日 (日)

50ページの図「江戸時代の護摩壇」

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この図は、大正3年(1914)から大正10年(1921)にかけて刊行された『日本大蔵経』に採録されている「修験道章疏」(全3巻)から引用しました。現在、『日本大蔵経』は国立国会図書館のデジタルライブラリーで公開もされています。

この「柴採燈護摩供行者堂図」は、宮家準編『修験道章疏解題』(国書刊行会 2000)によれば、峰順房斉賢が自ら入峰修行の際に見聞したままを記録したものだそうです。大峰の深仙をあずかる五鬼童(前鬼・後鬼の子孫の家柄)に伝来したものがもとになっているようです。

峰順房斉賢は佐渡島 相川(越後国雑太郡相川)の幕末の山伏で、明治の修験宗廃止令以降は修験道の記録をまとめたり修験道の再興のために奔走し、その活動はその子である牛窪弘善に受け継がれ(『佐渡相川郷土史事典』相川町史編纂委員会 2002)、貴重な修験道教学の資料を現代へつなげる役割を果たしました。

江戸時代の「さいとう」護摩は醍醐寺三宝院を棟梁と仰ぐ当山派は「柴灯」、聖護院を棟梁と仰ぐ本山派は「採灯」と表記していたので、その両派共同使用の護摩壇の記録として「柴採燈」と表記されています。

図の中を見てみても、右下の入口のところに両派が共有していたことがわかる以下のような説明書きがあります。
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〇於此入口当山輪房袈裟修験一人

〇於此入口本山綿房袈裟修験一人立合松明付火三返取遣遣渡火従入口所差入松明也

 但毎年当山方入峰護摩時本山方立合致火渡古例也

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ところで護摩は、「インドのサンスクリット語のホーマhoma(焼く、焚くの意)の音写です」(『日本国語大辞典』他、まぎれもない定説)。インド起源の儀式。そして「さいとう」は日本のオリジナルの儀式から生まれた言葉と考えられています。

2021年6月15日 (火)

48ページの写真「大善寺(山梨県勝沼市)の藤切」

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現在「ぶどう寺」とも呼ばれる大善寺も平安時代初期の薬師如来を本尊とする古代から続く寺院です。別当が新義真言宗となっていた江戸時代にも山内には天台宗系の宗教者も所属していて中世的な一山寺院組織の様相が残っていたようです。そして鎮守は五所権現でした。Katsunuma_ohtaki20060509_20210615223401Katsunuma_kohfu20060509

2006年の5月9日、勝沼の大滝にも行ってみたかったので、藤切の祭礼に間に合うように大滝不動から登って甲府盆地を右手にみながら宮宕山を越えて大善寺まで山越えしてみました。大善寺への下りがとても急斜面でした。その後知りましたが、東日本を代表する柏尾山経塚(白山平経塚)のある稜線はこの尾根筋ではなく東側の別の稜線でした。

『甲斐国志』には大善寺は詳細に説明されています。一部引用します。
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一 柏尾山大善寺
真言宗新義檀林七ヶ寺ノ一ナリ自性院ト号ス 城州醍醐山報恩院ノ末 御朱印寺領三十二石六斗余 柏尾村ト称ス古文書ニハ柏尾寺又かしはおの山寺トモ見エタリ 寺境ニ万三千五十坪山林東西十五町十間南北八町余 ……
… 表門…/二王門…/金堂…/鐘楼…/神変堂〔役行者堂也……役ノ小角自作ノ肖像也元ト御坂嶺上ニ在リ…〕/裏門…/鎮守五所権現社〔熊野三山伊豆箱根〕…/ 別当大善寺…/楼門……
… 三枝ノ先祖五所宮者承徳元丁丑(1097年)四月初メテ祭ル …
塔頭六坊 光明院〔無住〕 正覚院〔無住〕 遍照院〔無住〕 玉善院 一乗院 正蔵坊 以上本山派ノ修験ナリ 御朱印ノ内毎院千五百坪配分 口十七〔男六女十一〕馬一 末寺……

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そして、山内の山伏が担当した「藤切」についても簡単な説明があります。
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毎四月十四日祭礼舞台ニテ児子舞(チゴマイ)衆徒剣舞等アリ 庭上ニ三丈許ノ柱ヲ建テ藤蔓ヲ縄トシ之ヲ纏ヒ修験者一人柱ノ上ニ攀テ修法シ終テ剣ヲ以テ其ノ縄ヲ両断トナシ地ニ墜スヲ香花群集ノ人噪立テ左右ニ之ヲ引キ勝負ヲ争コトヲ旧式トス〔或勝負ニ因リ年内ノ吉凶ヲ卜ストモ云〕之ヲ柏尾ノ藤キリト謂 七覚山ノ祭祀ニモ此式アリ彼所ニテハ真裁ト唱フ
〇回国雑記〔文明十九年聖護院宮准三后道興ノ道ノ記也〕かし尾といへる山寺に一宿し侍りければ住持のいはく後の世のため一首をのこし侍るへきよししきりに申侍りけれはたちながら口にまかせて申つかはしけるかし尾と俗語に申ならはし侍れとも柏尾(カシハヲ)山にて侍るとなん
  かけたのむ岩もとかしはをのつからひとよかりねに手折てそしく

2021年6月 9日 (水)

第5回 相模国霊場研究会@小田急相模原

2021年(令和3年)11月1日(月)第5回 相模国霊場研究会の会場は
小田急線小田急相模原駅徒歩1分以内のおださがプラザ(小田急相模原駅文化交流プラザ)と決まりました。
多目的ルームA(定員40名)です。
時間も13時開場・会場準備・受付開始、13時20分~16時30分と前倒し時間になります。

詳細はコチラ↓です。
http://banshowboh.world.coocan.jp/sagami_study/

2021年6月 8日 (火)

相模国霊場研究会第4回ご報告

https://banshowboh.cocolog-nifty.com/blog/2021/06/post-1565fb.html

2021年6月 2日 (水)

46ページの地図(神木・真木に登る儀式)

P46_shinboku_map

この地図に示した中で、山梨県甲府市右左口(うばぐち)町の円楽寺については、江戸時代の公的な地誌に儀式の様子がかなり細かく記録されているので以下に引用します。

『甲斐国志』(文化11年:1814)は、19世紀初頭の江戸幕府の内命に応じて編纂されたと言われている地誌の一つで、武蔵や相模の『風土記稿』や『御府内備考』に先立つものです。

この地誌は、神社と仏寺を分けて章立てしているので、江戸時代の神仏習合状況の中では同じ行事が「神社部」と「仏寺部」の両方に記録されています。つまり、円楽寺という一山寺院組織の中に、さまざまな仏堂や神社があり、トップは新義真言宗でも、この組織には天台系本山派の山伏も真言系当山派の山伏も神職も関わっていたようです。中世以前の宗派がまだ確定していない時代には皆この一山組織の構成員だったのではないでしょうか。なお、「相川日向」という神職が出ていますが、この名前からして江戸時代以降と思われるので、もとの身分は何だったのでしょう?

因みに、円楽寺には日本最古の役行者像(平安時代後期~鎌倉時代)が現存しています。

柱を立てて山伏がよじ登る儀式が行われていたのは円楽寺五社権現(五所権現)社の神事です。
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『甲斐国志』巻之六十一神社部第七 巨摩郡中郡筋

五社権現〔右左(ウバ)口村七覚〕)
円楽寺 御朱印山内ニ在リ〔方二町余〕 一村ノ土神トス 熊野白山金峰伊豆箱根五社ヲ配祀ス 勧請ノ初メ詳カナラス
正殿〔梁間二間桁間六間檜皮葺〕拝殿〔梁間四間桁間八間茅葺〕東面ナリ是レヲ上宮ト云フ
下宮ヲ王子権現ト称ス 北ノ方山足ニ在リ 相距ルコト一町余所祀ル三神〔神号不詳〕
正殿〔梁間九尺桁間三間〕拝殿〔梁間三間桁間五間〕亦東面ナリ
毎歳四月十五日五社権現下宮マテ神幸アリ 本山山伏先達松雲院〔府中和田平町ニ住ス〕其他本山当山ノ山伏数十人役ノ行者富士山へ初入ノ式ト云事ヲ為ス
祠官幣帛ヲ執テ別当円楽寺ト同ク供奉シ下山ノ神輿ヲ仮屋ニ安置シ祝詞ヲ宣ヘ神楽ヲ奏ス
真木切ト云事アリ〔藤切トモ云長サ二丈八尺ノ柱ニ柴ヲ著ルコト廿八箇所結フニ藤蔓ヲ以ス二十八宿ニ表スト云 十三日ノ夜 下宮ノ庭前二建置ク〕
闋(ヲワリ)テ後 当山山伏ノ先達一人百足丸ト云長刀ヲ帯シ真木ノ頂上二攀登テ護摩ヲ焼キ刀ヲ抜テ第一ノ藤ヲ切ル〔真木切ノ山伏ハ一七日前ヨリ心経寺不動瀑ニテ潔斎ス〕
土人是ヲ七覚御幸ト称ス
古諺ニ七覚御幸ハ十五日平(ヒラ)メ団子ハ喰ホウダイト云リ〔農人ハ季春ヨリ〆漸ク食ニ匱シ此ノ頃ニ至レハ已ニ麦毛熟スルユエ喜テカク云 ホウダイハ随意ノ方言ナリ〕
祠官相川日向 修験松雲院 御朱印地内各五石配当ス

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『甲斐国志』巻之八十仏寺部第八 巨摩郡中郡筋

一 七覚山円楽寺〔右左口村〕真言宗新義檀林七ヶ寺ノ一金剛智院善勝坊ト称ス 城州醍醐山報恩院ノ末寺ナリ 御朱印寺領二十九石五斗余 境内一万二千六拾ニ坪山林アリ 相伝文武天皇ノ御宇 役小角ノ草創 大宝元年卓錫シテ初テ不盡(フジ)登山ノ路ヲ啓クト云〔富士ノ北麓ニ所祀役ノ行者堂至今円楽寺ヨリ進退之堂領山方八町アリ〕
本堂・・・/客殿・・・/鐘楼惣門・・・/王子権現社・・・/護摩堂迹・・・/五社権現社・・・/役行者堂・・・/六角堂・・・/修楼古迹・・・/五重塔迹・・・/塔頭ノ三刹・・・/外三十二坊古迹アリ
本山先達修験松雲院〔今和田平町ニ居住〕 五社権現ノ祠祝相川日向〔二人御朱印内五石宛配分ス〕
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年中行事 正月三日孔雀明王法 七日行者講 八日大仁王会〔僧十二人仁王般若経講読〕二月八日薬師護摩供 四月十五日五社権現祭礼〔神輿行幸 別当税(ママ)ノ部山伏数十人供奉シ役行者富士入峰ノ粧ナリ 真木トテ長二丈八尺ノ柱ヲ建テ柴ヲ附ケ藤ニテ二十八ヶ所結ヒ先達修験一人攀登リ寺宝ノ百足丸ト云太刀ヲ以伐之 七覚ノ真伐トテ州人為群集ナリ〕五九朔日大般若経転読修行 十一月廿六夜待
回国雑記〔文明十九年聖護院道興准后本州入輿紀行ナリ〇七覚山といへる霊地に登山す衆徒山伏両座歴々とすめる所なり暁更にいたるまで管弦酒宴輿をつくし侍りき宿坊の花やうやう咲き染めけるを見て〕
つぼみ枝の花もをりしるこの山に 七つのさとりひらきてしかな

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加えて、幕末に編纂された『甲斐​国社記・寺記』の中にもこの儀式に関わっていた松雲院による興味深い報告書があるのでそれも引用します。
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『甲斐​国社記・寺記』(慶応4年:1868)山梨県立図書館 1967

甲府和田平町
明細書上帳 本山修験二十四ヶ院組 松雲院

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除地
一 五百坪余   但当院古屋敷ニ御座候
   右者八代郡右左口村分内ニ御座候右地所之義ハ同村円楽寺門前百姓方江貸地ニいたし置候尤年々年貢等請取申候

八代郡総鎮守
一 五所大権現  右左口村分内ニ御座候
   右者七覚山と号し候山林勧請有之年々四月十五日七覚御幸と称し神事有之真言宗並神職修験三派立合ニ而修行仕候
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