46ページの写真「日向薬師の神木のぼり」
小沢幹「「日向山霊山寺」(通称日向薬師)の諸史料について」『伊勢原の歴史』第6号(伊勢原市、1991)には以下のように記されています。
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日向薬師関係の史料については明治27年(1894)の庫裏の火災により古文書等多数を焼失したので研究上多くの支障があり残念である。
---(中略)---
「神木(しぎ)登り」の行事については昭和49年(1974)4月15日の大祭時に約百年ぶりに復活されたが、時代により多少異なった部面もあるが、日向山修験の行事としては重要と思われる。地元の日向では「しげ立て」と称してきた。
---(中略)---
「神木立て」(しぎたて)がなまって「しげたて」と呼ばれたのである。明治30年代までは4月14日、15日の2日間の例祭で、14日が白鬚神社の例祭で15日が日向薬師の競馬が挙行されていた。
---(中略)---
この神木登りの行は八菅山や箱根山(現在の箱根神社)でも行われていたものである。この「しげ立て」について、県文化財専門委員だった永田衡吉氏が「神奈川文化財」の第4号で、「宝城坊の推登(すいとう)」として掲載された。永田氏は「江戸名所図会」の葛飾八幡の条(揺光之部巻之七)に「・・・(※ 別途、以下に全文を掲載しました)・・・」をあげられた。「江戸名所図会」では推登とあるが、実際の行では椎の生木を伐り出して用いているので椎登と思われる。
---(中略)---
日向山の「しげ立て」行事も明治維新の神仏分離により廃絶した。最後の「しげ立て」で椎に登った人は、日向薬師の八大坊の一つで能光坊の当主だった能條勘治氏である。勘治氏は大正13年(1924)10月24日他界された。
---(中略)---
明治維新の神仏分離に当り、明治3年(1870)百姓に還俗し、日向修験の茶湯寺的性格を持っていた日向の一ノ沢浄発願寺(天台宗弾誓派本山、上野の寛永寺の凌雲院末)の檀徒となっている。
---(中略)---
日向薬師の「しげ立て」とよく似た修験道行事は、熱海市の伊豆山権現、千葉県の野田市、下総の馬場町、東京都(ママ、千葉県市川市)の葛飾八幡宮、愛甲郡愛川町八菅山にもあった。なお、山梨県勝沼町の大善寺の藤切り行事もよく似ている。ここでは現在も行われていて有名である。
---(中略)---
この「しげ立て」の行事が明治維新に消滅した後に日向薬師の競馬がはじまったという。
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この行事の復活から現在に至るまで、この筆者である小沢先生をはじめ当事者の皆様の相当のご努力とご苦労があったものと推察いたします。なにしろ、明治期の火災による焼失のためか、この儀式についての古文書は日向山内では全く見つかっていないそうです。大変な行事だとは思いますが、今後もぜひ受け継いでいって頂きたいと願います。
さて、現在の調査研究成果の地平から見るとここで似た行事として紹介されているものは整理して分類する必要があります。
小沢先生も注目された、日向薬師の神木登りが記録されている唯一の同時代文字史料、天保7年(1836)に刊行された『江戸名所図会』巻七 揺光之部「葛飾八幡宮」の日向薬師が出てくる説明文は以下の「放生会」です。江戸名所図会は読み仮名がふってあるので、それもカッコに表して今まで意識されていなかったこの行事の呼び名に注意すべきかと思います。
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放生会
八月十五日に修行す。此の日神輿渡らせらる。また同日、津宮(つく)といふことあり。
夕七時(とき)頃当社の社人ら集まり華表(とりゐ)の前に檣(ほばしら)の如く長き柱に白布(しらぬの)を巻きたるを建て、上の方にてその白布を結び合はせて足をかくる代(しろ)とす。念願ある人身軽になり件(くだん)の楹(はしら)の上へ登り四方を拝し社(やしろ)の方を拝し終はりて下る。此の行事は相州日向薬師にもありてかしこにては推登(すゐとう)といへり。其の趣相似たり。又其の津宮柱(つくばしら)の下に楽屋(らくや)をまうけ神輿帰社におよぶ時、獅子(しし)猿(さる)大鳥(おおとり)の形を粧ひて此の楽屋より出でて笛太鼓に合はせて舞ふことあり。同十四日より十八日迠(まで)の間、生姜の市あり。ゆゑに土俗、生姜祭(しょうがまち)と唱ふ。マチは祭りの縮語なり。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563399/31
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この葛飾八幡宮(千葉県市川市)放生会の津宮柱(つくばしら)が日向薬師の推登(すゐとう)と趣が似ているという記事です。しかし、これは柱を立てて人が登り祈願するところが似ているだけで、南関東周辺の山伏の儀礼とつなげて語るのは今となっては無理があります。むしろ「つく」と呼んでいるので、野田の津久舞(千葉県野田市)、多古のしいかご舞(千葉県多古町)や龍ケ崎の撞舞(茨城県竜ケ崎市)など、下総国周辺で行われる祭礼と同じルーツを持つものだと思います。「下総の馬場町」は何を指しているのかわかりませんでした。
日向山霊山寺の「しげ立て」は山伏の入峰儀礼の中の儀式として考えなければその意味が見えてこないことは言うまでもありません。ただ、史料が全く失われている中で、遠い地域に文字記録として残されていたのはとても面白いと思います。
それと、明治以降の祭礼日である4/15・4/16という日程に江戸時代の神木登りが行われていたかどうかは大いに疑問があります。なぜならば、日向の山伏にとって霊山寺内で最も重要な神格と神社は明治以降は廃絶してしまった「七所権現」で、その「天下安全御祈祷修行」が「3月15日」であったことを記す旧院坊の古文書があります。ただ、これはまだ公開されていないので、またいずれ別の機会に論じたいと思います。そして、日向山伏の峰入り修行で山岳抖擻(とそう)に入るのは3月25日でした。
なお、上記の「「日向山霊山寺」(通称日向薬師)の諸史料について」『伊勢者の歴史』第6号(伊勢原市、1991)の内容は神奈川県教育委員会『中地区民俗調査報告書』(1973)の詳細な報告を整理した内容となっています。こちらも小沢先生のお仕事でしょう。そしてこの復活した神木登り表白文も最後に「神木先達小沢幹」とあります。
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