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2021年4月 5日 (月)

32ページの写真「鬼ヶ岩から蛭ヶ岳を望む」

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丹沢山地を縦走する方は一度はこの構図で撮影してみるのではないでしょうか。ただ、いつも晴れていて緑のある季節とは限らないので、こんな写真になることもあるのは皆様ご承知かと思います。

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鬼ヶ岩は、日向薬師の山伏たちにとっては「仙人ノ岩」でした(『峯中記略扣 常蓮坊』)。中世の大山寺の山伏にとっては「十羅刹塚」だったのではないかと推測しています(『大山縁起』真名本)。「鬼ヶ岩」という名称は江戸時代終わりごろからの俗人の登拝講による縦走修行が始まってから付けられたのではないかと推測しています。

人々の生活にかかわりが深い集落内や田畑・山林エリアの地名は、人々が共有して使用し後世までそのまま伝わることが多いと思いますが、人々の生活と縁の薄い高山エリアの地名は、古代以来広域の注目を集めてきた富士山や大山のような例を除けば、とりあえずかなりの部分がそれほど歴史はない、つまり古い地名ではないと疑っておいた方が無難です。

そもそも、山名でさえ、その山の東側(北側)の村と西側(南側)の村で違う名で呼んでいたことも珍しくありません。ましてや、山中のポイントの地名などは、歩く集団ごとに別の呼称となる可能性があり、時代の違いや立場の違いでその集団間に交流がない場合は、そのままバラバラだったはずです。

近代以降、世の中に地形図のような公的な地図が登場し、山名や地名を一つに決めて記入する際に相当の取捨選択や間違いまであったと考えるのが常識です。ですから、現代の地図を見て、こういう山名だから昔はきっと云々・・・と軽々しく論じることは出来ないのです。丹沢山地に関しては、登山ガイドブックなどの蘊蓄情報も一応まずは疑いましょう。

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