29ページの写真「金剛滝」「胎蔵界滝」
この2つの滝にたどり着いた時、誰もいない山の中で大声で感動を表現したように記憶しています。2004年の秋でした。何しろ中世の『大山縁起』真名本に記されていた「両部滝」の滝群が目の前に現れたのです。伊勢原の大山側では江戸時代にはもう全く不明となっていた滝群で、今では道がない上に水流が少ないので訪れる人も滅多にいません。
その詳細についてはこちらを参照して下さい↓。
http://musictown2000.sub.jp/history/ryoubunotaki.htm
なお、これらの滝群の所在する愛川町半原出身の小島櫻禮先生(琉球大学名誉教授)が、私が目を付けたこの滝群について、その後さらに興味深い民俗調査をして下さっています!以下、引用させて頂きます。
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小島櫻禮「良弁僧正ゆかりの如意輪観音像 半原田代の寺と丹沢の行者道」『やまゆり 神奈川ふだん記82』神奈川ふだん記(2016)
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・・・(前略)・・・城川隆生さんは、これは塩川滝の谷の滝にちがいないとみます。しかもそのあとに「華厳般若峯」「法華方」もあげています。それは現在も地名として残っている華厳岳・法華峯(ほっけぼう)に相当します。「両部の滝」とは金剛界・胎蔵界の滝一対ということのようです。
この両部の滝のことは、地元にも伝えが生きていました。この二つの滝は、字扨首子(さすご)と字塩川添(しおかわぞえ)の字境が崖になっていて、それぞれ扨首子から流れて来た川が、滝になって落ちる場所です。北側の滝が胎蔵界滝、別名は地蔵滝・飛竜滝で、滝の下の流れは飛竜沢と呼び、大椚沢に合流し、塩川に入る。南側の滝は金剛滝で、別名は蜀江滝といい、その下の流れは蜀江沢と呼び、塩川に合流します。
胎蔵・金剛の両部とは修験道でいう世界観を表わす用語で、いかにも修験者の行場らしい名称ですが、興味深いことには、この二つの滝は、あの大山寺の本尊の不動を迎えてまつったという大山平(オオヤマビラ)に相当する字扨首子九五六番地の北西と南東の地番境を流れる川が、北東の崖の面に落ちるところにあたります。つまり両部の滝は大山平から流れ出しているのです。もし大山平がほんとうに霊地であったとすれば、二つの滝はその霊威を伝える水であったことになります。
この両部の滝は、中津川の河原からずっと奥まったところにありますが、なんと田代の字上田代(かみだしろ)にある愛川中学校から、雨の降ったあとなど、二つの滝の水が落ちているのが見えたそうです。一・五kmほども離れていますから不思議な位置関係であると思っていたのですが、思いもかけず、この中学校の校庭の南の隅にあたるところにあった西光寺が、これらの滝の管理者であったというのです。
小島正次さんが細野の旧家の人、佐々木米蔵さんから聞いた話です。塩川滝は高さ七十五尺、金剛滝は別名を蜀江滝といい、高さ百十四尺で塩川の支流にあり、地蔵滝は高さ八十尺で金剛滝に並ぶとして、西光寺の所管に属すといいます(小島正次『郷土愛川の沿革と周辺の歴史』私家版 1983)。西光寺は字上田代一四二八番地にあった寺院で、明治二年に廃寺になっていますが、『新編相模国風土記稿』「田代村」の条には、半原村の清瀧寺末で、富士居山と号したとあります、塩川の谷の滝は、間接的に清瀧寺がかかわっていたことがわかります。・・・(後略)・・・
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