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2021年3月

2021年3月29日 (月)

29ページの写真「金剛滝」「胎蔵界滝」

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この2つの滝にたどり着いた時、誰もいない山の中で大声で感動を表現したように記憶しています。2004年の秋でした。何しろ中世の『大山縁起』真名本に記されていた「両部滝」の滝群が目の前に現れたのです。伊勢原の大山側では江戸時代にはもう全く不明となっていた滝群で、今では道がない上に水流が少ないので訪れる人も滅多にいません。
その詳細についてはこちらを参照して下さい↓。
http://musictown2000.sub.jp/history/ryoubunotaki.htm

なお、これらの滝群の所在する愛川町半原出身の小島櫻禮先生(琉球大学名誉教授)が、私が目を付けたこの滝群について、その後さらに興味深い民俗調査をして下さっています!以下、引用させて頂きます。

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小島櫻禮「良弁僧正ゆかりの如意輪観音像 半原田代の寺と丹沢の行者道」『やまゆり 神奈川ふだん記82』神奈川ふだん記(2016)
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 ・・・(前略)・・・城川隆生さんは、これは塩川滝の谷の滝にちがいないとみます。しかもそのあとに「華厳般若峯」「法華方」もあげています。それは現在も地名として残っている華厳岳・法華峯(ほっけぼう)に相当します。「両部の滝」とは金剛界・胎蔵界の滝一対ということのようです。

 この両部の滝のことは、地元にも伝えが生きていました。この二つの滝は、字扨首子(さすご)と字塩川添(しおかわぞえ)の字境が崖になっていて、それぞれ扨首子から流れて来た川が、滝になって落ちる場所です。北側の滝が胎蔵界滝、別名は地蔵滝・飛竜滝で、滝の下の流れは飛竜沢と呼び、大椚沢に合流し、塩川に入る。南側の滝は金剛滝で、別名は蜀江滝といい、その下の流れは蜀江沢と呼び、塩川に合流します。

 胎蔵・金剛の両部とは修験道でいう世界観を表わす用語で、いかにも修験者の行場らしい名称ですが、興味深いことには、この二つの滝は、あの大山寺の本尊の不動を迎えてまつったという大山平(オオヤマビラ)に相当する字扨首子九五六番地の北西と南東の地番境を流れる川が、北東の崖の面に落ちるところにあたります。つまり両部の滝は大山平から流れ出しているのです。もし大山平がほんとうに霊地であったとすれば、二つの滝はその霊威を伝える水であったことになります。

 この両部の滝は、中津川の河原からずっと奥まったところにありますが、なんと田代の字上田代(かみだしろ)にある愛川中学校から、雨の降ったあとなど、二つの滝の水が落ちているのが見えたそうです。一・五kmほども離れていますから不思議な位置関係であると思っていたのですが、思いもかけず、この中学校の校庭の南の隅にあたるところにあった西光寺が、これらの滝の管理者であったというのです。

 小島正次さんが細野の旧家の人、佐々木米蔵さんから聞いた話です。塩川滝は高さ七十五尺、金剛滝は別名を蜀江滝といい、高さ百十四尺で塩川の支流にあり、地蔵滝は高さ八十尺で金剛滝に並ぶとして、西光寺の所管に属すといいます(小島正次『郷土愛川の沿革と周辺の歴史』私家版 1983)。西光寺は字上田代一四二八番地にあった寺院で、明治二年に廃寺になっていますが、『新編相模国風土記稿』「田代村」の条には、半原村の清瀧寺末で、富士居山と号したとあります、塩川の谷の滝は、間接的に清瀧寺がかかわっていたことがわかります。・・・(後略)・・・

2021年3月28日 (日)

29ページの写真「塩川滝」

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塩川滝については、愛川町役場の説明では「滝幅4m、落差約15m。724年~729年の神亀年間、奈良東大寺の別当良弁僧正がここに清流権現を祭ったとの伝承があります。滝つぼ近くは夏でもひんやりとした冷気が漂っています。雨乞いの霊験あらたかな滝であり、八菅修験の第五番の行所でもありました」と説明されています。

実は、八菅の山伏にとってだけでなく、大山の山伏にとっても、この滝を含めた塩川の谷の全体が中世前期にまでさかのぼる重要な行所だったことを本書でも詳しく触れています。

ところで、緊急事態宣言下で中止になってしまった筆者の講演「中世の山伏(修験者)と異界の出入り口 ―山岳マンダラと江ノ島淵―」(2/27予定@あつぎ郷土博物館)の中で、この塩川滝が『新編相模国風土記稿』諸本でどのように描かれているかを見比べて、この4枚の挿絵比較からだけでも、陸軍文庫本が原本でそれをもとに内閣文庫本も鳥跡蟹行社版も雄山閣版も写しているのがわかるのですよ~、というお話をパワーポイントを使ってしようと準備していたのですが。残念。また別の機会にいたします。

あつぎ郷土博物館企画展示「再生・永遠回帰の生命-人はどこから来て、どこへ行くのか-」

2/27に予定されていた私の講演「中世の山伏(修験者)と異界の出入り口―山岳マンダラと江ノ島淵―」をはじめ2月3月の関連講座は中止になってしまいましたが、4/11まで企画展示「再生・永遠回帰の生命-人はどこから来て、どこへ行くのか-」が延長されたそうです!定年を迎える大野館長最後の大仕事。お時間のある方、ぜひ伺いましょう!



緊急事態宣言に伴い、中止としていました、企画展示「再生・永遠回帰の生命-人はどこから来て、どこへ行くのか-」ですが、会期を変更し、4月11日(日)まで展示いたします。感染対策をしてご来館ください。お待ちしております。
(ただし、関連講座は中止、一部3月30日(火)までの展示資料もあります。)

あつぎの歴史・民俗・自然が好き! あつぎ郷土博物館さんの投稿 2021年3月24日水曜日

2021年3月16日 (火)

28ページの写真「石尊大権現」「大天狗」「小天狗」の狛犬台座

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まず「大天狗」「小天狗」がいつから祭られていたかはわかりません。全国に同じような天狗の祭り方をしているお山があるので、かつてそういう天狗ブームがあったのかなあと推測するしかありません。

「石尊権現」は、鎌倉時代の13世紀には成立していたと考えられる『大山縁起』真名本の中に「本宮に化池あり。或いは失す。恒に神あり。石尊権現と名づく」とあります。「本宮」とは山頂の大山寺本宮(現在の阿夫利神社上社)、江戸時代には「石尊宮」とも呼ばれています(『大山地誌調書上』)。全国の山頂祭祀遺跡と同じように初めて足を踏み入れた古代の修行僧たちによって祭り始められた神と考えるのが自然だと思います。

さてそのご神体は?

実は、江戸時代の大山の石尊権現の「石」の観察記録が残っています。寛政7年(1796)の津村正恭の随筆集『譚海』には「石尊権現の宝物に小石あり、青色なり、先年安部友之進採薬御用にて廻国のとき、この石を拝見せしに、綴耕録にいへる鮓荅という石なるよし、折節旱損にて雨乞しけるに、此石を友之進乞出して綴耕録にあるごとく水にひたし雨乞せしに、雨降て土民大によろこべりといへり」という不思議な話が載っています。

「鮓荅」とは『日本国語大辞典』には
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さとう
〘名〙 馬、牛、羊、豚などの胆石。また、腸内に生じた結石。解毒剤として珍重され、また、雨乞いのまじないとして用いられた。牛黄(ごおう)。馬の玉。ヘイサラバサラ。ドウサラバサラ。さくとう。
〘名〙 (pedra (石の意)とbezoar (結石の意)を重ねた語からか)⸨ベイサラバサラ⸩ 馬または牛・羊・鹿などの腹中から出る石。獣類の腸内に生じる結石。解毒剤として用いた。鮓荅(さとう)。馬の玉。また、病気をなおす呪いに唱えることばとしてもいう。
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とまあこれまた不思議な物体。

『譚海』の話は幕末の『皇国名医伝』中巻(1851)の中にも阿部照任友之進の事績の一つとして「相州雨降山、世称大山、観神庫有一石如玉・・・(云々)」と採用されています。『譚海』の安部さんは阿部さんだったようです。いかに幕府の医官による薬種調査とは言え、部外者に見せているし、小さいとあるので、まさか石尊権現のご神体の磐座ではないでしょう。

2021年3月 9日 (火)

25ページの写真「発見された石造碑伝」

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2003年(平成15)、この石碑が発見されたお話を当時寿町にあった厚木市郷土資料館(現在は移転して あつぎ郷土博物館)で伺った時は、身震いしたことを覚えています。もう日が沈み始めて暗くなりかけていましたが、すぐに車を飛ばして現地に向かい、まだ地面に横たわっていたこの石碑の大きさと山伏たちの名前と修行記録に感動して興奮しました。場所はココ(Google マップ)です。

本書で使った写真は翌日の日中に再度行って撮影したものです。最初に行った時の車のヘッドライトで照らしながら撮影した様子もご紹介。

ただ、自然になのか人為的になのか、摩耗がひどく全部は読み切れません。判読出来るところをご紹介いたします。

なお、この碑伝の拓本が神奈川県立歴史博物館の特別展「鎌倉ゆかりの芸能と儀礼」図録(2018)に掲載されました。それによると、どうも側面にも何か書いてあったようです。いずれにしても判読不能です。

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◆石碑1(ヨコ30.4cm、タテ38cm、上部のみの残欠)
(中央上種子)
 カンマン(流れカンマン)・・・不動明王
(中央文字)
「奉祈」
(右)
「七所大権現」
(左)
「□(三カ)所大権現」

◆石碑2(ヨコ30.7cm、タテ84cm、主体部、下部を欠いている)
(中央文字)
「□下奉平□日向山大先達□□□□□権大□□□□院教」(以下欠)
(右)
「大先達権大僧都大泉院隆賀當峯八度 権少僧都能光坊慶春當峯三度
 大先達権大僧都大蔵坊□□當峯九度 権少僧都西□坊□□當峯五度」
(右下)
「権律師林泉房」
(左)
「大先達権大僧都智大坊賢賀當峯八度 権少僧都□圓坊慶春當峯□度
 大先達権大僧都常蓮坊□□當峯七度 権少僧都圓光坊傳秀當峯三度」
(左下)
「以上同行」
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2021年3月 1日 (月)

23ページの写真「清川村煤ヶ谷の八幡神社に納められていた碑伝と護摩札」

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平成22年(2010)まで清川村煤ケ谷八幡神社に保管されていた碑伝(ひで)と護摩札。神社に侵入した賊によって破棄されたため亡失。

2005年(平成17)4月に調査に伺った時はこの11枚のお札を見つけました。その経緯については、「表紙の写真その6 年代不明の碑伝」に書きました。
今回は、この11枚のうち文字が判読出来る真言宗寺院の護摩札4枚をご紹介いたします。

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(右半分が割れている)
(種字不明)奉修正八幡宮□本地御祈□□□中安全如意満足攸
                      三 光 寺
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                         別 當
(種字不明)奉修護摩供 村内安全 如意満足 廿一ヶ座祈處
                         三光寺
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           天下泰平          別當
カンマン(不動明王)奉修護摩供 民運長久 如意満足 祈攸
           日月清明          三光寺
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                             於花蔵院道場
カンマン(不動明王)奉修初行護摩供二坐社頭不朽□(勅カ)中安静如意満足祈所
                             須海慶尊和南
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先日、日頃お世話になっている飯塚さんに連れられての山帰りに煤ヶ谷の花蔵院(真言宗)さんを案内して頂きました。そこで、有難いことに、もと三光寺の十一面観音立像を拝ませて頂きました。

明治政府から神仏判然令が出されるまでは、この八幡宮の別当(今で言う神主)を務めていたのは花蔵院の末寺だった三光寺の住職(真言宗)です。お厨子の中のお姿を遠くから拝しただけですが、中世のほとけ様らしい風格を感じました。時々、色々なご縁の回り合わせで素晴らしい文化遺産に出会えることがあります。これを仏縁と呼ぶか、研究縁と言うか、修行縁と呼ぶか、仕事縁と言うか、まあ、あまり限定せずに、感謝の気持ちと柔軟なアンテナを大切にし続けたいと思います。

※すでに紹介済みの碑伝についてはコチラ
  ↓
表紙の写真その6 年代不明の碑伝
表紙の写真その7 煤ケ谷八幡神社 八菅山伏の碑伝
表紙の写真その11 日向山伏の碑伝(23ページ左写真にも掲載)

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