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2021年2月22日 (月)

22ページの写真「不動ノ平」

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標高約1575mの不動ノ平。江戸時代に目撃されていた南北朝時代14世紀の不動明王像は行方しれず。故奥野幸道先生のご高著『丹沢今昔』の1975年の写真には、現在、丹沢山みやま山荘で祭られている明治7年の不動明王像がしっかりお座りになっています。このお像はいたずらされて捨てられていた事件をきっかけにみやま山荘で管理されているそうです。

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実は、奥野先生には、不動明王像をいつまでも山荘に置いておいて良いのでしょうか?という内容のお手紙を直接頂いたことがあります。奥野先生は私の父とは丹沢の山中で何度も出くわすような数十年前からの間柄で、2005年の拙著『丹沢の行者道を歩く』を出版した際は、感想やコメントを下さったのでした。

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その不動明王像がみやま山荘に移された後は、いつのものか不明の小さなお不動さんがその台座に据えられていました。台座側面に刻まれた明治7年時の銘文は以前は読むことが出来ました。2004年の撮影時は「同国同郡 神山村中 願主 最明寺 實辨」「世話人 堀村 源右エ門」と読めます。

その時は台座の表裏二面が読めませんでしたが、こう書いてあったようです。「再建施主 相州足柄上郡 金子村惣村中」「別当 川村東光院」(坂本光雄「塔ノ岳孫仏記」『あしなか 第41輯』 山村民俗の会、1954)。

明治5年(1872)に政府の修験宗廃止令で丹沢から山伏が消滅した後も、山中の不動明王の霊場を守り続ける方が必ず現れ文化を守って下さるのだと実感いたします。

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