表紙の写真その9 煤ヶ谷八幡神社 明治3年の碑伝
「神仏判然令」(本書では日本史教科書用語「神仏分離令」を使っていますが、厳密にはこう表記すべきと鈴木正崇慶應大学名誉教授にご指摘いただきました)と「修験宗廃止令」(本書では昔の『修験道辞典』の用語「修験道廃止令」を使っていますが、これも厳密にはこう表記すべきと同じく鈴木先生にご指摘いただきました)の狭間の時期に当たる明治3年(1870)の採燈護摩供板碑伝です。
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今上皇帝 維時 明治三庚午年 當峯大先達 海合院/覺圓坊/光勝寺
カンマン(不動明王)奉修採燈護摩供國家鎮護祈攸
寶祚萬歳 閏十月吉辰 結衆十有五人
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この碑伝については「第10章 神仏分離と『新編相模国風土記稿』」の138~139ページで詳しくご紹介しています。読んで頂けると光栄です。
ただし!正直に申し上げます。この碑伝の「寶祚萬歳」の2文字目に傷か汚れがあって、本書では「寶作萬歳」と読んで説明していました。「寶祚」とは天皇の位のことですが「寶作」と判断してしまい、豊作を祈願する表現とみなして書いています。
早くも、聖護院門跡のご門主 宮城泰年先生と上智大学の西岡芳文教授から、これは「寶祚」ではありませんか?という鋭いご指摘をもったいなくも頂戴いたしました。素直に納得いたしました!日本を代表する大研究者と大宗教者に直接ご教示して頂けることに感謝感激であります。という訳で、この場で以下修正させて頂きます。
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138ページ7行目:×「宝作(=豊作)万歳」→〇「宝祚(=明治天皇の位)万歳」
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