表紙の写真その5『御行列』
大峰山中でのご本尊を入れた木製リュックサック「御笈(おい)」を背負うお役目の山伏たち。
宝暦7年(1757)に京都で出版されたこの『御行列』。八菅山以外にもどこかに残っていないかなあと探して「日本の古本屋」のサイトでも見つけたことがありますがそこでは『御入峯御行列記』という書名で、しかも絵無しの写本でした。ところが考古学の森下恵介先生がこの夏に出版された『吉野と大峰 山岳修験の考古学』(東方出版)を購入したら、その表紙がまさにこれでびっくり。現代新日本語的に言うと「かぶり」ました(笑)。ここでも史料名は『御入峯御行列記』。愛川町では『御行列』です。表紙の文字は消えてしまったのか表題がない状態で、最後に「御行列板元」として京都の板元(版元)の住所と名前があります。
宝暦七年(1757)に、当時の全国本山派山伏の棟梁 聖護院門跡増賞(ぞうしょう)親王(桜町天皇の猶子、当時23歳?)が大峰に入峰する時の長大な行列を一冊の本に仕立てたものです。描かれているのは山伏を中心にお付きの人々を含めて299人。でも当時の記録では実際は781人が入峰(『修験道聖護院史要覧』岩田書院2015)。7/25京都出立、徒歩(門跡は四方輿、一部は乗馬)で吉野(奈良県)へ向かい8/6から大峰山中で修行、9/2熊野本宮着、9/22京都帰着、10/10京都御所へ駈出参内(たぶん今で言う土足参内)、10/29江戸下向、12/6京都帰着。
大峰修行で身に着けた新鮮な験力(げんりき=山伏の宗教的・呪術的なパワー)を使って天皇と将軍を守るのが聖護院門跡の一番の使命でした。
そして、山伏装束の華やかな大規模パレードの様子を本にしてみんなで楽しもうというのがこの本の趣旨かと思います。出発時には山伏装束も法具の数々も汚れていないし、京都や途中の街道沿いの見物人の数もものすごかったはずです。
この行列の中に、八菅山衆 (愛川町)、覚圓坊(町田市木曽)、大蔵院(町田市図師)、熊野堂(厚木市旭町)、大鏡院(厚木市小野)、玉瀧坊(小田原市)、泉乗院(津久井長竹、相模原市緑区)、南覚院(相模原市中央区上溝)、仙能院(秦野市横野)などなど東京・神奈川エリアの山伏も描かれている訳です。八菅山に残っていたのも、自分たちがメディアに紹介された自慢の証拠として保存されていたからではないでしょうか。自己主張的書き込みも数々あります。
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