金輪寺というお寺
山梨県境の神奈川県相模原市緑区名倉(もと津久井郡藤野町名倉)に金輪寺という古いお寺が江戸時代の終わりまであって、その歴史が面白いです。
金輪寺は室町時代から蔵王権現社(今の石楯尾神社)の別当(組織の最高責任者)で、戦国時代前期の頃は「座生山金輪寺玉蔵坊」として、名倉権現宮(蔵王権現社、今の石楯尾神社)にあった十数坊の中でも別当であり、たぶん奈良県吉野との所縁を持つ山伏(修験者)でもあったのだと思います。
ところが江戸時代には、「野浜山金輪寺」という真言宗のお寺として活動しています。江戸時代に入って、この金輪寺は玉蔵坊であることを止めて真言宗寺院として再生し、引き続き、蔵王権現社の別当を務め、10世紀『延喜式神名帳』の「石楯尾神社」(いわたておのかみのやしろ)との連続性を強く主張しながら明治維新を迎えたのだろうと思います。ところが、石楯尾神社のご神体は江戸時代も引き続き蔵王権現で、しかも境内で役行者を祀っていました。山伏時代の信仰は残り続けていたのです。
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文亀三年(1503)『再造棟札』
「名倉権現宮、相州奥三保十八箇村、并河入郷七ヶ村、都合廿五ヶ村惣社也
応神天皇御宇、当社御幸所也
右相州毛利庄、大和国春日大明神御領也。
……(略)……
別当座生山金輪寺 玉蔵坊也、地頭二条関白太政大臣子孫、監物太夫信頼」
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天保12年(1841)『新編相模国風土記稿』
「○石楯尾神社
別当 金輪寺(※ 野浜山ト号ス、古義真言宗)
神体 銅像(立像、長一尺一寸)
相模国高座郡十三座の一、式内の神社なりと云伝ふ(既に佐野川村にも石楯尾神社あり、…)
祭神は蔵王権現なり、石楯尾神社・蔵王権現と並べ書したる扁額を掲ぐ
伝え説く文亀三年に再建したる旧き神社なれども永禄十二年武田信玄三増の役より凱旋する時、路是辺
にかへりし時、火を放て経過し玉へば霊宝旧記の類悉く烏有となる」
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