合掌 大先達 岡本孝道師と山念仏
この本58ページで譜面として掲載させて頂いた山念仏の最高の唱え手で、前 伽耶院(がやいん、兵庫県三木市)ご住職 岡本孝道師が今年の5月21日にお亡くなりになったそうです。大峰修行での岡本大先達の山念仏を私は生涯忘れません。ありがとうございました。合掌。
28ページの記事↓
http://banshowboh.cocolog-nifty.com/book2020/2021/07/post-aaf4b1.html
この本58ページで譜面として掲載させて頂いた山念仏の最高の唱え手で、前 伽耶院(がやいん、兵庫県三木市)ご住職 岡本孝道師が今年の5月21日にお亡くなりになったそうです。大峰修行での岡本大先達の山念仏を私は生涯忘れません。ありがとうございました。合掌。
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いよいよ最後の図です。話を分かりやすくするために、八菅山が江戸幕府地誌調所に提出した報告書から、現代の我々が図書館で今までよく閲覧していた雄山閣本までのテクスト筆写の流れを図式化してみました。
この「碑伝二基」の部分については、内閣文庫本のみがサイズを間違えて記述してしまっているのは本書でお示しした通り。
そして、この件につきましては、以下提言いたします。
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◆ 神奈川県及び各市町村への提言
「 陸軍文庫本を県民・市民・町民・村民が閲覧出来るように行政として予算化して取り組んで下さい」
※ 陸軍文庫本の複写には多額の費用がかかります。
(1枚につき213円=撮影130円+入紙13円+フィルム伸ばし70円)
※ 国会図書館での正式タイトル名は
『新編相模国風土記稿:125巻首1巻』(種別:和古書・漢籍)
請求記号:W244-4 国立国会図書館書誌ID:000003284871
※ 閲覧は古典籍資料室で可能
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神奈川県立図書館にも、旧知の神奈川県議会議員にも直接提言いたしましたが、自分が生きている間に実現しそうな気がしないので、これが大事なことであるとお気づきの方はぜひ働きかけをお願いいたします。多くの地方自治体が、内閣文庫本が一番正確なはずという勘違いで貴重な住民税を無駄にしました。
『新編相模国風土記稿』諸本の比較にはやはり図がわかりやすいかと思いましてこの「大山図」を掲載しました。陸軍文庫本(国会図書館蔵)、つまり江戸幕府地誌調所本の精細さが一目瞭然かと思います。ただ、陸軍文庫本は明治時代に、明治新政府の地誌課や、鳥跡蟹行社の方々がこれを原本に筆写する時に綴じ込みを一度ばらして筆写してまた綴じ直したのでしょう。不自然に綴じ込みが固くて中央部は読めません。しかも大山の部分はページの順番まで狂ってしまっています。いわゆる錯簡です。
1月に中止になったあつぎ郷土博物館の私の講演では以下の大山図の全体を4種類すべてお示しして、聴講のみなさんに間違い探しをして頂こうと思っていましたが、ここで公開します。写し間違いですぐに気づくところが一ヶ所あります。八大坊下寺(現在は阿夫利神社社務局)の文字の左の竹林らしき小さな林を描き忘れている写本が一つだけあります。さて、どれでしょう?
なお、文字の異動箇所につきましてはこちら↓で公開しています。
http://musictown2000.sub.jp/history/hudokikoh_ohyama.html
この『新編相模国風土記稿』浄書本の存在は、神奈川県内の研究者にはほぼ無視されていました。以下にお示しするように神奈川県内各自治体史などの『新編相模国風土記稿』の扱いを見てみれば一目瞭然です。
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●国立公文書館所蔵写本(内閣文庫本)を底本とするか複写して資料としている自治体
• 『逗子市史資料編1 古代・中世・近世Ⅰ』 1985
• 『鎌倉市史 近世近代紀行地誌編』(※雄山閣刊行本の可能性もあり?) 1985
• 『綾瀬市史2 資料編近世』 1992
• 『海老名市史3 資料編 近世Ⅰ』 1994
• 『伊勢原市史 資料編 近世1』 1992
• 『南足柄市史2 資料編 近世(1)』 1988
• 『山北町史 資料編 近世』(※写真全文) 2003
• 『厚木市史 近世資料編(4)村落2』(※写真全文) 2007
• 『城山町史2 資料編 近世』 1990
• 『津久井町史 資料編 近世1』 2004
●雄山閣刊行本を底本にしている自治体
• 『寒川町史1 資料編 古代・中世・近世(1)』 1990
• 『開成町史 資料編 近世(2)』 1997
●『津久井町史 資料編 近世1』 2004
「・・・・・完成した『風土記稿』は江戸城の文庫である紅葉山文庫に収蔵された。しかし明治初年亡失し、現在私たちが見ることが出来るものの内、献上本に最も近いものは内閣文庫所蔵の明治六年(1873)の写本である。・・・・・」
●『かながわの歴史文献55-神奈川県関係基本史料解説目録-』(県立図書館 2008)
「将軍献上の浄書本は明治6年(1873)の皇居火災で焼失して現存しない。その後に新たに書写された59冊の完全本が国立公文書館内閣文庫に所蔵されているが、その底本は不詳とされる。活字翻刻本は明治17年(1884)から『新編相模国風土記』洋装本全5冊として、1~3巻が出版社・鳥跡蟹行社(ちょうせきかいこうしゃ)、4・5巻が発行人・谷野遠によって刊行された(以下、これを仮に「明治本」という)。この明治本は底本、編集方針、出版の経緯等について全く説明がなく、出版社・発行人も実態がほとんど不明であるが、以後の翻刻本はすべてこれに基づいている。
・・・・・ 本書は近世の神奈川を知る最も基本的な文献でありながら、内閣文庫本と翻刻本の異同など未解明の部分もあり、今後の書誌学的研究の進展が待たれる」
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しかし、全国区で見れば、全く知られていなかった訳でもありません。神奈川県内だけで大きな勘違いがずーっと続いていたのです。『新訂増補 国史大系 月報 40』(吉川弘文館)には山本先生のこういう記述があるのです。ただ、紅葉山文庫の火事で献上本の方が燃えてしまっていたことはまだ把握されていない様子。それにしても、なぜ、神奈川県で気付かれなかったのかは大きな謎。きっと県レベルで先入観に染まってしまっていたのだと思います。
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● 山本武夫「徳川幕府の修史・編纂事業 九-地誌編修-」『新訂増補 国史大系 月報 40』吉川弘文館 1966
「・・・・・これも、大日本地誌体系に収められているが、浄書本の所在は判然としない*1。「今茲天保十二年辛丑ニ至リテ其稿成ル、・・・・・・浄写呈進、功ヲ竣ス」とあるから、献上された筈であるが、内閣文庫本は、明治八年(ママ)*2の写本である。国会図書館本は、非常に綺麗な清書本であるが、「陸軍文庫」の旧蔵書印と共に、「編修地誌備用典籍」の印があるところから、地誌取調所に架蔵されていた書であろう。・・・・・・」
*1 献上本は明治6年5月焼失 *2 明治6年12月
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なぜ、陸軍に『新編相模国風土記稿』の原本が保管されていたのかは、自分なりに調べて、あつぎ郷土博物館の今年1/23の講演会「相模国霊場研究と『新編相模国風土記稿』原本の存在」でもお話しする予定でしたが、ご存知の通り、まん延防止等重点措置のため中止となりましたので、またいつか機会があれば。ただ、陸軍が『新編相模国風土記稿』をはじめとする史料群を帝国図書館に慌てて持ち込んだことは、国会図書館に問い合わせて調べてもらって以下わかりました。
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※『 国立国会図書館における未整理史料の現状 』国立国会図書館職員組合1965 及び、レファレンスサービス回答(2019/3/7)
「敗戦直後、連合軍の進駐を前にして、参謀本部より相当量の書籍・地図が旧上野図書館に持ち込まれた」
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『新編相模国風土記稿』陸軍文庫本及び諸本につきましては、以下拙論をご参照下さい。
●「相模の一山寺院と『新編相模国風土記稿』地誌調書上-大山寺と光勝寺-」(『山岳修験』第65号、日本山岳修験学会 2020)
この碑伝の写真は表紙でも使用していますのですでにこちら↓でご紹介済みです。
http://banshowboh.cocolog-nifty.com/book2020/2020/11/post-901fd5.html
本文の以下修正箇所のみ、重要なので再度繰り返します。
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138ページ7行目:×「宝作(=豊作)万歳」→〇「宝祚(=明治天皇の位)万歳」
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(聖護院門跡 宮城泰年ご門主、上智大学 西岡芳文教授 からのご指摘)
国立公文書館蔵『相州八菅山書上』については、すでに2020年10/6の「表紙の写真その2『相州八菅山書上』国峰修行」で取り上げました。
↓
http://banshowboh.cocolog-nifty.com/book2020/2020/10/post-de4bfc.html
その時も、書きましたが、まだ未公開だったこの『相州八菅山書上』は私が4,480円をお支払いしてスキャニング作業を行って頂きました(2017年7月)。そして今は、国立公文書館のデジタルアーカイブでどなたも無料で(!)閲覧&ダウンロード出来るようになっているのであります(くどい?)。
私の出費が世のため人のために役に立っているのだから納得いたしまーす(貧乏人の・・・?)。
この絵はこの本の中で最も後悔している自分で描いた下手くそな絵です。数ある蔵王権現像の中でも秀麗な姿として評価の高い如意輪寺(奈良県吉野郡吉野町)のお姿をモデルにしました。お恥ずかしい。
西日本にはこの他にもたくさんの蔵王権現像や図が現存していますが、神奈川県には、南足柄市三竹の御嶽神社にだいぶお姿の壊れているのが残っているのと、相模原市緑区吉野の吉野神社の懸仏ぐらいしか現存していないのではないでしょうか(吉野の地名は偶然?)?
もと蔵王権現社だった御嶽神社はたくさんあっても、そのほとんどは亡失したか処分されたのでしょう。ほかにご存じの方がいたらぜひ教えて頂きたい。
ところが、『新編相模国風土記稿』津久井縣輿瀬村の蔵王社(現在の与瀬神社、相模原市緑区与瀬)の項には、当時まだ現存していた素晴らしいご神体の図像が掲載されています。あとから思い出してとても後悔しました!これを掲載すれば良かったのです!
ただし、この「蔵王権現ノ図」は刊行本ではその魅力は伝わりません。やはり原本の陸軍文庫本です。津久井縣の調査を担当したのは幕府地誌調所のスタッフではなく八王子千人同心の調査隊です。この絵は誰が描いたのでしょうか?この調査隊には『武蔵名勝図会』『日光山志』『鎌倉攬勝考』なども著した植田孟縉という地誌編纂の達人がいたことがわかっています。そして植田孟縉は実力のある画家でもありました。この調査隊には他に河西愛貴という画才のある人物もいて、この2人が八王子千人同心の地誌調査隊の原画作成の主力だったと考えられています(八王子市郷土資料館『江戸時代に描かれた多摩の風景~『新編武蔵國風土記稿』と『武蔵名勝図絵』』 2010 参照)。
この「蔵王権現ノ図」に限っては、明治政府が筆写させた内閣文庫本も見劣りしません。これもなかなかの絵師が担当したのでしょう。
今年1月23日、あつぎ郷土博物館で私の講演「相模国霊場研究と『新編相模国風土記稿』原本の存在」が予定されていました。しかし行政府の「まん延防止等重点措置」のため直前に中止になってしまいました。講演では文字テクストだけでなく各種図像の比較も行って『新編相模国風土記稿』各本の成立の順序をテクスト分析の手法でお示ししようと準備していました。
テクスト分析の材料として、そして、ほんとはこの陸軍文庫本「蔵王権現ノ図」をこの本の挿絵に使いたかったという思いをこめて以下ご紹介。
※陸軍文庫本については以下をご参照下さい。
拙稿「相模の一山寺院と『新編相模国風土記稿』地誌調書上-大山寺と光勝寺-」(『山岳修験』第65号、日本山岳修験学会 2020)
これは厚木市下荻野にあった修験寺院 光善院(本山派、小田原玉瀧坊霞下)に伝来した寛政2年(1790)の史料で、厚木市郷土資料館(現在はあつぎ郷土博物館にリニューアル)が2002年に行った企画展「相模の修験者」で展示されていたものです。もと館長の大野先生から写真を送って頂きました。各種の護身法(行者が身を堅固に守護する呪法)が伝授されていたようです。
この前後のページも見てみないと全体がわかりづらいのでそのうち拝見したいなあと思っていて、大野先生には先日お願いの電話をしました。
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唵 ソテイザ■リ(?) 以上五印 真言一度
次 九字印
一 二 三 四 五 六 七 八 九
臨 兵 闘 者 皆 陣 烈 在 前
以上九印 一印ニ一字ヅゝ唱フ
右ノ一ヨリ九マデ印結ビヲワツテ九字ノ
前ノ字ノ印ニテドゞメ左ノ鞘ノ中へ種
々ノ祈願ヲコメ鞘ノ下ヘアテタル刀
印ヲ鞘ノ手ノ上アテ替テ蓋ヲシタ
ル如クカタクヲサエソレヨリ右ノ刀印
ヲ宝釼トミナシ一ニ三ノ圖ノ如ク三度
クリカヘシ刀印ニテ切ルナリ
次 金剛縛印 真言口伝 六字明王咒唱
オンギャチギャチギヤビチカンチタチ
バチソワカ
天竺ノ天ノフリナワヲロシタマヘ印ヲ結ヒ
タルマゝ中央左右ト一度ツゝ押スベシ
次 護身印真言
ニ手内相又右押左ヲ堅ニ中指ヲ屈シテニ頭ヲ
如釣形於中指背勿令相着並大指押無名
指印五処額右肩左肩心喉散頂
オンハジラギニハラジツハダヤソワカ
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最後の真言は、被甲護身の真言で、現代で一般的に使われている発音とは違う模様。昔は流派によって多様に発音されていたのだと思います。例えば「ハジラギニ」は現代の真言宗のテキストなどでは「バザラギニ」と表記されていますが、もとはサンスクリットの"vajra agni"(「金剛」(ダイヤモンドのように堅固な)「火の神アグニ」)なので、この切紙の発音の方がインドの発音に近いと思うのですが。
その前の六字明王の真言は、梵字マントラで書いてあるのが珍しいのでは?六字明王そのものは11~12世紀の白川院政期に上皇の周辺で創造された純日本産の尊格らしいのですが、怨敵からの難に対抗することが出来る呪文は漢訳経典のいくつかに「佉知佉注佉毘知緘寿緘寿多知波知」として伝来していたようです。ただこの呪文を唱える時の本尊を六字明王としていたのは真言宗の中の限られた一派(小野勧修寺流)だけだったらしいです(上川通夫「『覚禅鈔』「六字経法」について」『愛知県立大学文学部論集』54巻 2006 参照)。
それが江戸時代には荻野の天台宗系の山伏さんにも伝わっていたぐらいポピュラーになったのでしょうか。これも発音は濁らず「キャチキャチュウ・・・」の方がもとの発音に近いんでしょうか?
六字明王のお姿はなかなか変わっていて『大正新脩大藏經図像部第3巻』(SAT大藏經テキストデータベース研究会「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」https://dzkimgs.l.u-tokyo.ac.jp/SATi/images.php?vol=03)でも閲覧できます。
江戸時代という強固な身分制社会の中で、天皇猶子の宮門跡本人が自ら直接訪ねて来る村、菊紋と五七の桐紋の箱に入った下賜品を直接もらえる人たちが住む村というのは、まずめったに存在していなかったと思います。他に、そのような事例があったら教えて下さい。
いまや普通のお百姓さんにしか見えない(失礼m(_ _)m)八菅山伏のご子孫のお一人が、先祖はこんなのもらってるんだよ、と見せて下さった時に、それはもう驚愕いたしました。中身は秘密です。
「宗門の頂上身分」(杣田善雄「門跡の身分」『〈江戸〉の人と身分3 権威と上昇願望』吉川弘文館 2010)である門跡の中でも最高位に属する宮門跡が八菅山にやって来た。現代人の感覚を超える事件だったのだろうと思います。
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