書籍

2022年1月11日 (火)

114ページの写真「竜ヶ馬場から見た大山」

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文化2年(1805)に佐藤さんが大山を遥拝した辺りは、日向山霊山寺(伊勢原市)の山伏は入峰修行の中で「竜ガ馬場」と呼んでいました。佐藤さんは気付かなかったのかもしれませんが、ここに龍樹菩薩が祭られて碑伝が納められていたようです。日向山伏の常連坊が書き残した『峯中記略扣』には、尊仏岩の次の行所としてこうあります。
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是ヨリ登リ龍ガ馬場也此所百間程ノ長サニ而広ハ五間位ノ馬場ノ形也此中所ニ竜樹菩薩ノ尊有是ニ札納而モ此馬場ニ而竜樹ボサツ馬ニ御ナリ相成候ト云伝也

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馬の話が出てきますが、これはもちろん信仰上の神話です。山伏たちが名付けた地名が現代の登山地図にそのまま使用されている例は本書で紹介しています。この写真は2005年4月6日の昼前に撮影したデータ記録になっています。当時持っていたカメラが安物なので画質はイマイチですが、本書で使った写真にフォトショップでつなげてパノラマ写真も当時作ってあったのでここではそれを掲載します。

ところで、まず馬が登って来られそうにないところに「馬場」がつく地名が多いのは北陸の白山だと思います。『白山山頂遺跡群調査報告書』(石川県白山市教育委員会、2011)によれば、まず山頂へ向かう3本の禅定道(登拝ルート)の始点が「美濃馬場」「越前馬場」「加賀馬場」。山中では、美濃禅定道には「南竜ヶ馬場」、越前禅定道には「相撲の馬場(仕舞の馬場)」、加賀禅定道には「北竜ヶ馬場」。山中の「馬場」地名とその神話は中世山伏の広域修行ネットワークを通じて丹沢山地にも運ばれて来たんだろうと思っています。

そして白山にまたいつか登ってみたい。これも2005年秋の思い出写真
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2022年1月 3日 (月)

112ページの写真「尊仏岩あと」と「拘留孫仏」「倶留孫仏」「拘樓秦佛」「迦羅迦村駄佛」「krakucchandha-buddha」

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この写真の撮影は2015年8月12日の10時15分ごろ。塔ノ岳には9時過ぎには登って来ていたので、もっと早い時間に撮影して次の撮影場所へ向かおうと思っていましたが、尊仏岩跡を見つけ損ねて斜面で迷って山頂まで直登してまた下ってを繰り返すこと3回。方向音痴丸出しでやっとたどり着きました。尊仏岩跡では毎年祭祀も行われているようですし、普段から多くの登山者も訪ねています。父親も昔行ったと言っていたし、陸軍陸地測量部の地形図にも出ているし、ウェブ上で記録を残している皆さんの地図なども目にしたし・・・しかし、結局一時間以上さまよう羽目になる体たらくでした。

江戸時代後期から明治時代ごろと判断できる石造物が3基。文字塔には「梵字アン 尊佛」、いかにも素人の作。なぜ「アン」なのかは不明(因みに、現在、山頂の平成「拘留孫佛如来」は「アーンク」になっています)。あとの2基は首なしの如来型座像。そのうち1基は本書でご紹介した『尊仏山方之事』の佐藤さんが文化2年(1805) に目撃した大日尊の可能性が高いと思います。いずれにしても、3基とも山伏の入峰修行に関わるものではなく、江戸時代の18世紀後半~明治時代に盛んになった在俗の行者さんたちや尊仏参りの参詣者、またはそれに関わった僧侶などの奉納物と判断しています。

タテにそびえる巨岩を「拘留孫仏」として信仰する事例は全国で数々報告されていますが、そのルーツはやはり経典にあるのだろうと思います。

里からは見えない行所・行場が信仰対象になっていくパターンは(里から拝める場合は話は別です)、まず山伏たち山岳修行者が修行エリアの行所・行場に仏教的意味付けをするのが第1段階。江戸時代後期~明治時代になって一般庶民の登拝習俗や民間の行者さんがその山伏の信仰を受容するのが第2段階、登拝した人々からまだ行っていない山麓の里人にもその行所・行場の存在が知られるようになって信仰が広まって行くのが第3段階。これは「拘留孫佛」に限らず、不動明王だったり摩利支天だったり、~童子だったり、と全国には様々な事例があります。山伏の中には里人を引き連れて行所・行場に案内して修行体験させる先達業務を行う人もいました。

そこで、塔ノ岳の語源は江戸時代の山名「塔ノ峰」で「塔」は尊仏岩ではなく山頂にあった小さめの「弥陀薬師ノ塔」(『峯中記略扣 常蓮坊』)ですが、いずれにしても「塔」のような岩と「拘留孫仏」を結びつける連想はどこから来ているのだろうと以前から考えています。

現在、仏教経典のテキストは「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」(SAT大藏經テキストデータベース研究会)のおかげで、横断単語検索が出来る時代になりました。「拘留孫仏」と検索しただけで、多くの経典にこの仏さんが登場していることがわかります。しかも、この仏はインドでも大乗仏教成立以前から信仰されている「krakucchandha-buddha」で、その表記も「倶留孫仏」で検索してもたくさん。検索中の中ではこのあたりには注目中。
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『根本説一切有部毘奈耶藥事卷第十七』

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拘留孫佛時 有造彼佛 時我爲傭力 常與他雇作
作此之時 我頻出惡語 何用斯大 豈有得成期
宜微小作 不應廣費損 省功無憂惱 而得速成就
由斯口業故 説此麁惡言 臨終既命過 墮於地獄中
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仏典以外でも『高僧法顯傳』では「拘樓秦佛」、玄奘『大唐西域記』では「迦羅迦村駄佛」と表記されていて、古代中国からインドを巡礼した三蔵法師たちはこの「krakucchandha-buddha」を供養するための塔が建っているのを目撃しています。ただし、どの仏陀も同じように供養に塔が建てられています。びっくりするのは、過去仏の信仰でありながら、この仏さまが生まれ育った町や入寂した場所や入寂の様子までが古代インドでは真実として信仰されていたという驚きの事実。一つだけご紹介。
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『高僧法顯傳』(『隋書』経籍志では『仏国記』)

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調達亦有衆在常供養過去三佛。唯不供養釋迦文佛。
舍衞城東南四里琉璃王欲伐舍夷國。世尊當道側立立處起塔。
城西五十里到一邑名都維。是迦葉佛本生處。父子相見處。般泥洹處。皆悉起塔。迦葉如來全身舍利亦起大塔。
從舍衞城東南行十二由延到一邑名那毘伽。是拘樓秦佛所生處。父子相見處。般泥洹處。亦皆起塔
從此北行減一由延到一邑。是拘那含牟尼佛所生處。父子相見處。般泥洹處。亦皆起塔。
從此東行減一由延到迦維羅衞城。
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そして、大正時代には、玄奘『大唐西域記』のコースを訪ねた日本人宗教者(サンスクリット・インド仏教研究者)がネパールでこの「krakucchandha-buddha」生誕地の塔跡地をここに違いないと撮影しているのです!
これは国立国会図書館で公開されています。岡教邃『印度仏蹟写真帖』(1918)
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以上、古代インドと丹沢山地の不思議なつながりのお話。

2021年12月30日 (木)

110ページの鳥瞰図「『黒尊仏山方之事』の参詣コース」

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この鳥瞰図も、カシミール(https://www.kashmir3d.com)と山旅倶楽部(http://www.yamatabi.net/main/index.html)で作成しています。作図についての詳細はこちらで↓。
http://banshowboh.cocolog-nifty.com/book2020/2021/01/post-9c5dee.html

19世紀の初め、大山寺の御師の一人が、大倉から蛭ヶ岳までを日帰り参詣登山した貴重な記録を鳥瞰図で読者の皆様にわかって頂ければと作図いたしました。

ちょうど先週、このコースの一部をトレーニングがてら歩いて来ました。文化2年(1805)に歩いた佐藤さんは、富士山・愛鷹山・箱根山・伊豆を拝めたのでしょうか?書き残していないところをみると天候に恵まれず拝めなかったのかもしれません。この絶景を見たならば書き残すだろうと思うのです。
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2021年12月20日 (月)

109ページの史料『黒尊仏山方之事』

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この文化2年(1805)の丹沢縦走の記録『黒尊仏山方之事』の写真は、以前、大山周辺の古文書を長年研究していらっしゃる川島敏郎先生が教えて下さりご提供いただきました。

伊勢原市教育委員会の方からも、前からあるのはわかっていたんだよ、と言われましたが、要はこれを目にした先生方はこの縦走路に関する土地勘と山岳修行の諸様態についての情報をお持ちでなかったので、それほど注目されることが無かったのだと思います。

ところが、山岳修行の宗教的思想と空間認識を研究している自分にとっては、とってもびっくりの史料で、山伏が峰入り修行をしていた時代と明治以降現在にいたるアルピニズム登山の時代の空隙を埋める史料、言い換えれば中世近世と近代現代をつなぐ史料として大変注目しているわけです。

本書では現代語訳してありますが、原文はこちら↓でご紹介しています。
http://musictown2000.sub.jp/history/kurosonbutu.html

詳細は拙稿「丹沢山地・蛭ヶ岳と山岳修行者の空間認識」『山岳修験』第58号(日本山岳修験学会 2016)をご覧下さい。

2021年12月16日 (木)

106ページの写真「方広寺の鍾銘」

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国重要文化財(美術工芸品)として指定されている方広寺の梵鐘(京都市東山区)は、高校日本史の教科書や資料集にも写真が掲載されていて、修学旅行で訪ねた方も多いと思います。総高は4mを超える巨鐘。我々が関東で大きいなあとびっくりする円覚寺(鎌倉)の梵鐘の総高が2.6m、増上寺(港区)が3.3mなので、大きさのレベルが一回り違います。当時の豊臣家の勢力の象徴として一度実見する価値はあります。しかも近くから銘文まで読めるし、ご丁寧に白いチョークで徳川家康がケチをつけた文言が囲われていました。

『日本の美術 No.355 梵鐘』(至文堂、1995)によれば、慶長19年(1614)、京都三条の鋳物師を棟梁に、駿河、江戸、伊勢、播磨、大和、河内など各所の有名鋳物師11人が脇棟梁を勤め、総勢3100余人によって鋳造されたそうです。

この写真の撮影は2017年4月11日。満開の桜と芽吹きの季節を迎えた久しぶりの京都でした。聖護院門跡に現存する『相州愛甲郡八菅山付属修行所方角道法記』の閲覧が主目的で、ついでにあちこちフィールドワークをしました。その時の日記レポート↓
http://banshowboh.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-2184.html
http://banshowboh.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-4a29.html

本書でもご紹介した「杉本坊周為・雑務坊源春連署書状」(住心院文書)から慶長年間の相模大山の大変革と徳川対豊臣の対立には何か連動するものがあるんじゃないかなあと感じていた次第です。

2021年12月 7日 (火)

105ページの写真「前不動の跡地 追分」

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大山の男坂と女坂が分岐するこの場所の江戸時代の様子は、天保6年(1835)4月に大山寺が江戸幕府地誌調所出役の内山孝之助と小笠原藤右衛門に提出した『大山地誌調書上』にこのように記録されています。
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前不動ゟ本坂末社覚

一 前不動堂地坪数百拾弐坪
   大山入口銅鳥居ゟ前不動迄道法廿弐丁

一 不動堂
   桁行四間五尺梁間同断 流破風
  不動尊
   木立像四尺三寸五分 作相知不申候
   二童子 木立像丈弐尺 作相知不申候

一 御棟札
     元禄六癸酉年   別當八大坊法印空辨   
   前不動堂大檀越内大臣源綱吉公
     十一月朔日  御奉行 五味小左エ門尉豊法
                豊前十左エ門尉忠政

一 同所ニ瀧有之前不動滝与唱申候
   瀧高サ九尺 瀧壺□間九尺
    瀧口者樋□落し申候

一 同所唐銅手水鉢
   高サ三尺四寸 渡り三尺五寸六分
    寛政十一己未年正月  

一 無動庵
   間口四間 奥行弐間半

一 本坂登り口石獅子壱對
   高サ 三尺四寸 長 四尺弐寸
    文政十三寅年五月

・・・(以下略)・・・

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「前不動滝」や「無動庵」など、今まであまり知られていなかった様子もわかります。『大山地誌調書上』は、『新編相模国風土記稿』編纂のために提出を求められた報告書ですが、編纂の中でまとめられたり省略されたり書き換えられたりする前の貴重な史料です。東京大学史料編纂所に大正時代に筆写された謄写本が現存していて、現在、筆者はそれをもとに少しずつ分析作業を行っています。その一端は、「相模の一山寺院と『新編相模国風土記稿』地誌調書上-大山寺と光勝寺-」『山岳修験』第65号(日本山岳修験学会 2020)に少しご報告してあります。

後は、相模国霊場研究会で、これから何回かに分けてご報告予定です。大山についての今までの歴史説明にかなり間違いがあることがよくわかります。次回の相模国霊場研究会は2022年6月6日午後3時15分、場所は相模大野のユニコムプラザさがみはらです。新しいご参加者常時募集中です。

2021年11月29日 (月)

103ページの写真「那智の滝」

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2003年9月12日、初めて拝む那智滝に圧倒されながら写真を撮影しました。大峰奥駈修行中に携帯していた当時のカメラの保存容量が少なかったためにわずかしか撮影していないのが残念。

参拝所に写っている山伏さんたちは大峰で同行だった方々です。31ページの写真「熊野本宮大斎原と大峰の山々」にも思い出話を書きましたが、大峰修行の最後の行事(熊野三山巡拝、これはバスで移動)の最終ポイント那智で同行だった皆様と別れ、自分は単独行動のフィールドワークを開始しました。

まずは、午後からこの那智滝の上へ。那智滝は江戸時代までは「飛瀧権現」という神名で信仰されていました。もしやそれは海(熊野灘)の船上から滝を遥拝した人々が山中を飛ぶ神仏の柱のように見立てたネーミングではないかと勝手に妄想し、ということは、滝の上からも熊野灘の海原が見えるはずだと、山道を登っていきました。

結論、滝口へは近付けませんでした。神聖でなおかつ危険な場所なので当然でした。ただ、この大滝は一ノ滝で、この上流には二ノ滝、三ノ滝をはじめ立派な滝群が「那智四十八滝」として存在しています。そして、感動したのはこの上流部の原生林の森の豊かさです。この大滝の上に魚の大群が泳ぎ回っているとは想像もしていなかったので、ただただわーっと声を出して見とれてしまいました。アマゴ?タカハヤ?どなたかご存じでしたら種類を教えて下さい。

2021年11月25日 (木)

101ページの絵図「江戸時代の松原明神と玉瀧坊」

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拙い手書きの絵図で恥ずかしいのですが、さすがに著作権上、『東海道分間延絵図』を写真複写してある東京美術本(児玉幸多監修 1978)をそのまま使う訳にもいきませんし、この印刷本では60.6%に縮尺されているため細かい字が読み取れないので、松原明神と玉瀧坊のあたりだけがわかるように自分で描いてみました。

『東海道分間延絵図』は『五海道其外分間延絵図並見取絵図』のうちの一つで、寛政十二年(1800)に幕府の事業として五街道をはじめ脇街道を含めた宿村で調査が始まったことがわかっています。詳しくは以下参照。
※杉山正司「『五街道分間延絵図』と『宿村大概帳』の制作」『郵政博物館研究紀要』第6号(2015)
※白井哲哉『日本近世地誌編纂史研究』思文閣出版(2004)

つまり、当時の国家の公式の縮尺1/1800絵図で、詳細で正確なところが魅力なのです。

玉瀧坊は、江戸時代が終わるとともに廃寺となり、松原明神も松原神社となって担い手も変わりました。しかし、昔のことがわからなくなってしまった現代になってもこの公式絵図が視覚的に当時を伝えてくれます。今の小田原市本町2丁目11番地~12番地一帯でしょうか。

30年近く前、まだ自分も不勉強だった頃、松原神社を訪ねて、昔の玉瀧坊はどこにあったのでしょう?などと質問させて頂いたことがありました。よくそういう質問をされるのですがわかりません、という事でした。現代の「神社」一般に(江戸時代以前の)昔のことを伺うのは無理なことが多いんだなあと実感した次第です。

2021年11月18日 (木)

99ページの写真「法螺貝と山伏」

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2004年(平成16年)の大峰奥駈修行、第59靡(なびき)「七曜岳」と第58靡「行者返」の間の下り急斜面ですぐ目の前の若い山伏の背中越しに撮影した一枚。奈良県吉野郡天川村と上北山村の境界になる稜線です。

確か、当時、彼は都内の某カソリック系有名大学の大学生で、この聖護院の修行だけでなく、一年の間に他の修験道教団の奥駈修行も複数かけもちしていて、君は修行マニアだねえ、という会話をした記憶があります。複数教団の山伏修行に参加するという事は、一年で数十万円をかけるという事で、しかも東京から飛行機を利用することもあると言うのにちょっと唖然とした記憶も。当時、自分は青春18きっぷと深夜バスで移動していたので。

そういうお金の使い方をする学生もいるのだあと思ったり、まず普段は遭遇することがない(自分の主観からすると)不思議な人生を送っていらっしゃる方々にたくさん出会える日々でありました。

2021年11月15日 (月)

98ページの写真「大山寺院坊跡の平場」

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山に入る方は皆さんご存じですが、大山を含めて丹沢山地で鹿を見かけることは珍しくありません。鹿を見かけると喜ぶ方も多いですが、私はがっかりします。この鹿が運ぶ吸血生物の気持ち悪さを身を以て経験しているから。それに鹿が増えすぎて自然環境も破壊されています。

それはともかく、慶長10年に実雄が開基と伝えられる八大坊があったこの平場(加工段)には、江戸時代には、大日堂(3間2尺×4間半)・護摩堂(2間1尺×3間2尺5寸)・大師堂(2間1尺×3間2尺5寸)・客殿(10間×7間)・土蔵(3間×2間)・鐘楼(1丈1尺×1丈1尺)といった建物が立ち並んでいました。入口の門は薬医門です。『大山地誌調書上』(天保6年)には山内の様子が詳細に記録されています。おそらく中世の頃もここに別当坊があったのだろうと思われます。室町時代に聖護院門跡道興が宿泊したのもここだったのではないかと推測します。

八大坊のすぐ前には7間×6間の二王門がそびえていました。そこから前不動に下る本坂(今の男坂)にも道の左右に平場がたくさんあって、聖観音堂・太神宮八幡春日鹿島合社・庚申堂・子之権現社・大日如来堂・地蔵尊堂・弥陀八幡社・虚空蔵堂・十一面観音堂・恵比寿大黒堂・弥陀如来堂・文殊菩薩堂・薬師如来堂・聖徳太子堂・如意輪観音堂・愛染明王堂・役行者堂・毘沙門堂・地神荒神堂・五智如来堂・八幡社・大日如来堂・閻魔堂・牛頭天王社・馬頭観音堂・勢至菩薩堂・地蔵尊荒神渡唐天神相殿・弥陀如来秋葉権現相殿・正八幡社・千体佛堂・弁才天社・七福神天神合社・文殊堂の「本坂末社三拾三箇所」の小堂社が祭られていました。

現在の阿夫利神社下社の境内となっているエリアには、大覚坊・常圓坊・喜楽坊・橋本坊・中之院・宝寿院・実城坊・授得院・養智院・上之院・廣徳院・大勧進・神力坊・光圓坊・宝光坊・長順坊・泉岳坊・祐順坊それぞれの客殿と庫裏や土蔵が立ち並んでいました。この中で中世から続く院坊は大勧進だけですが、中世の頃はさらに家族で生活する僧侶・山伏・俗人もここに住んでいたので、ちょっとした山上宗教都市の様相も見られたのではないでしょうか。

『大山地誌調書上』(天保6年)については、拙稿「相模の一山寺院と『新編相模国風土記稿』地誌調書上-大山寺と光勝寺-」(『山岳修験』第65号、日本山岳修験学会 2020)で取り上げていますが、長大な量なので、相模国霊場研究会で何回かに分けてご紹介しながら皆さんと詳しく勉強していきたいと思います。まずは2022年6/6の第6回研究会の予定です。

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