展望

2022年3月 8日 (火)

127ページの写真「伊勢原市日向の道しるべ庚申塔」

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 天明元歳(1781)
 丑六月吉日

庚申塔

 右 いい山
 左 やくし 道

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九州の山伏、野田泉光院が、飯山観音、日向薬師、大山寺を訪ね歩いた頃、巡礼峠~日向薬師の辺りにはたくさんの道標が建立されていて今でもその道標の文字を判読できるものも少なくありません。それだけ多くの参詣者が歩いていた証拠です。

お陰様で、現代でも、この辺りをフィールドワークする時の楽しみの一つになります。そして、巡礼者・参詣者を迎え入れていたこの地域の人々の信仰とホスピタリティを感じることも出来ます。

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これは泉光院が歩いた時にはまだ建立されていません。
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 右 いい山
 左 ひなた 道

南無阿弥陀仏

 文政十丁亥(1827)
 十月 日

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これはちょっとルートからは外れるので泉光院も見ていないと思います。
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 右ハ ひなた道
 左ハ 大 山 道

(青面金剛像)(三猿)

 判読不能

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 明和六己□年(1769)
     三月吉日

(青面金剛像)(三猿)

 此方 いい山み□

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     寛保ニ壬戌(1742)□月吉日

庚申供養 右やくし道

     左一之沢大山みち

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2022年2月27日 (日)

125ページの写真「現在の八菅山遠望」

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中津地区から八菅山を展望すると奥に経ヶ岳が望めて、手前には八菅山光勝寺の結界とも考えられる中津川、昔から好きな景観なのですが、解像度の高い良い写真を撮っていなかったのでこの程度で申し訳ない感じです。

自分の高校時代の剣道部の主将が中津の熊坂君だったので、中津地区にはたまに訪ねることはありましたが、八菅山についてはかつては正直あまり意識していませんでした。それが、俄然、注目することになったのは、神奈川ヒマラヤ登山隊長だった広島三朗さん(地理学)の影響です。

当時、『地球の歩き方 パキスタン編』(ダイヤモンド・ビッグ社)を一人で書き上げていたほどのパキスタンの専門家で、その他にも『神奈川県の山』『山が楽しくなる地形と地学』(山と渓谷社)、『K2登頂幸運と友情の山』(実業之日本社)など、登山家ながら執筆活動にも熱心で、一度退職してK2に登って来てマスコミに英雄的に評価されたのを活用してまた神奈川県の教員に戻るという離れ業をやった伝説の高校教師です。

相模台工業高校の職員室で机を並べていろいろな事を教わり、特に野外フィールドワーク授業のノウハウは感動すら覚えました。広島さんが、職員室で授業の合間に出版社向けの原稿を周囲の眼など気にもせず書きまくっていた時、「丹沢のガイドブックに歴史情報も書き加えたいんだけれど、城川さん、日本の宗教思想史専門だったら八菅や丹沢の山伏について調べといてよ」。その言葉が遺言のようになりました。その年1997年(平成9)夏、ヒマラヤ遠征で、登頂成功後のベースキャンプを大きな雪崩が襲い、隊員の仲間とともに亡くなりました。合掌。

それから20年後、第38回日本山岳修験学会山北・丹沢学術大会(2017)で「聖護院蔵『相州八菅山付属修行所方角道法記』と入峰空間考」というタイトルで研究発表をいたしました。その内容は「「相模の国峰」再考-相州愛甲郡八菅山付属修行所方角道法記』と『相州八菅山書上』」(『山岳修験』第62号)という論文になっています。
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広島さんの遺言の約束を一つ果たしたような気がしたのでした。

ところで、今年3月5日から予定されていた日本山岳修験学会第41回 富士山学術大会が諸般の事情により残念ながらオンライン開催に変更されました。その研究発表の中に5年前の自分の発表と全く同じタイトルを発見!びっくり仰天、しかも和歌山熊野の山本先生!とても楽しみです。ただ、発表日の3/6(日)は万象房の仕事をしながらになってしまったので、拝聴出来るかどうかが微妙なところです。

☆3/2追記:同じタイトルだったのは学会事務局の作業ミスによるものと判明いたしました。山本先生のご発表正式タイトルは「那智参詣曼荼羅再考」でした。どうも以前の書類を上書きしながら作業をしているうちに5年前の私のタイトルが残ってしまっていたらしいです。拍子抜けいたしました。

2022年2月 4日 (金)

119ページの写真「行者ヶ岳と鎖場」

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日向山霊山寺(日向薬師)の坊中に伝わった『峯中記略扣 常蓮坊』には行者ヶ岳での修行についてこのように記録されています。
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大キナル岩ノ上ニ役ノ行者有ココニ札納法示祓シ
是ヨリ左ニ付下ルト新客ノゾキノ岩有
是ニ新客ノ腰縄ヲ付ミセル也

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大峰奥駈の新客修行の記憶がまだ新しい頃、この行者ヶ岳「ノゾキノ岩」の記述は、山上ヶ岳表行場「西の覗」や裏行場「平等岩」の超緊張の修行が蘇って、思わずどの岩だ?と探さずにはいられませんでした。

すでに崩落したり地形が変ってしまっている可能性もあるので、これは絶対探し当てられない妄想の世界ですが、学術研究論文ではまさか載せられないけれど一般向けの書籍ならば読者の理解の一助としてイメージ写真的に良いかなと判断し、この筆者の妄想を『丹沢の行者道を歩く』(白山書房 2005)ではかつて掲載いたしました。それがこちらです。

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2022年1月31日 (月)

117ページの写真「秦野市堀西から見た塔ノ岳と丹沢表尾根」

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子供の頃、冬になれば毎年見ていた当たり前の景色。特に河岸段丘の森に囲まれた四十八瀬川からの景色は格別です。

1960年代の四十八瀬川にはまだ清流魚のカジカがたくさんいました。夏休みには水中眼鏡と銛とお醤油を持って川に行き魚を捕まえて、川べりの焚火で焼いて食べたりもしました。上流にあった釣り堀?養殖場?から逃げて来たらしいニジマスを見つけて皆で懸命に捕獲作戦をしたこともありました。ヤマビルなんてまだ一匹もいなかった時代です。

秋になれば秦野西小学校の図画工作の野外授業でよく四十八瀬川に写生に出かけました。紅葉の森とその奥にそびえる丹沢山地を必ず描かされたように記憶しています。そして、冬になれば、稜線に近い上の方からだんだんと雪で白くなっていきます。今よりも積雪が多かった時代です。

小学校の校歌にも中学校の校歌にも歌詞の中に「四十八瀬川」がありました。特に秦野西中学校の校歌は、地元出身の歌人・国文学者 谷 鼎(たにかなえ)の作詞です。子供の頃からの見慣れた風景を念頭に置いて詞を書いたのだと思いますが、「丹沢」は出てこない。当たり前すぎて必要なかったのかもしれない。
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秦野西中学校校歌
作詞:谷 鼎 作曲:吉岡孝之

近くあふりね遠く富士 高きわれらの希望ぞと
日毎あおぎてふるいたつ 若き力は今ここに

四十八瀬の川の音 清きわれらの心ぞと
日毎聞きつつ励み行く 若き力は今ここに

仁者は山を楽しむと 智者は水をば楽しむと
麗しきかなこの自然 たのまんかなやこの大地

新しき世をおこしては 世界の平和打ち建てん
自主協同を志す 若き力は今ここに

2022年1月23日 (日)

116ページの写真「不動ノ峰から蛭ヶ岳への尾根筋」

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「不動ノ峰」は、日向山霊山寺の山伏が「宿」(キャンプ地)としていた不動尊を祭る「神前ノ平地」(『峯中記略扣 常蓮坊』)、また、文化二年(1805)の佐藤さんたちが「不動嶽」と呼んでいた「イタツテ平チ也ル所」(『黒尊佛山方之事』)、つまり「不動ノ平」を登り詰めた峰ということで明治以降そう命名されたのだと思います。「不動ノ平」(「神前ノ平地」「不動嶽」)については22ページの写真「不動ノ平」でも触れました。

この写真は、2016年8月13日6時48分撮影というデータになっていました。宮ヶ瀬湖(清川村)から丹沢湖(山北町)まで歩く調査撮影山行。お盆の時ぐらいしかじっくり山に入る暇がなかった頃で、その時のレポートはコチラ↓
http://banshowboh.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/2016-12df.html

その頃、本を書くつもりだったのか、とびっくり。それどころか次々に新出史料が発見されて論文書きで精一杯になることをまだ知らない自分。それにしてもこの一枚は『黒尊佛山方之事』の記述がピンとくる景観写真だと思うのです。

この時の成果は拙稿「丹沢山地・蛭ヶ岳と山岳修行者の空間認識」『山岳修験』第58号 日本山岳修験学会 2016をご参照ください。

2022年1月11日 (火)

114ページの写真「竜ヶ馬場から見た大山」

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文化2年(1805)に佐藤さんが大山を遥拝した辺りは、日向山霊山寺(伊勢原市)の山伏は入峰修行の中で「竜ガ馬場」と呼んでいました。佐藤さんは気付かなかったのかもしれませんが、ここに龍樹菩薩が祭られて碑伝が納められていたようです。日向山伏の常連坊が書き残した『峯中記略扣』には、尊仏岩の次の行所としてこうあります。
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是ヨリ登リ龍ガ馬場也此所百間程ノ長サニ而広ハ五間位ノ馬場ノ形也此中所ニ竜樹菩薩ノ尊有是ニ札納而モ此馬場ニ而竜樹ボサツ馬ニ御ナリ相成候ト云伝也

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馬の話が出てきますが、これはもちろん信仰上の神話です。山伏たちが名付けた地名が現代の登山地図にそのまま使用されている例は本書で紹介しています。この写真は2005年4月6日の昼前に撮影したデータ記録になっています。当時持っていたカメラが安物なので画質はイマイチですが、本書で使った写真にフォトショップでつなげてパノラマ写真も当時作ってあったのでここではそれを掲載します。

ところで、まず馬が登って来られそうにないところに「馬場」がつく地名が多いのは北陸の白山だと思います。『白山山頂遺跡群調査報告書』(石川県白山市教育委員会、2011)によれば、まず山頂へ向かう3本の禅定道(登拝ルート)の始点が「美濃馬場」「越前馬場」「加賀馬場」。山中では、美濃禅定道には「南竜ヶ馬場」、越前禅定道には「相撲の馬場(仕舞の馬場)」、加賀禅定道には「北竜ヶ馬場」。山中の「馬場」地名とその神話は中世山伏の広域修行ネットワークを通じて丹沢山地にも運ばれて来たんだろうと思っています。

そして白山にまたいつか登ってみたい。これも2005年秋の思い出写真
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2021年12月30日 (木)

110ページの鳥瞰図「『黒尊仏山方之事』の参詣コース」

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この鳥瞰図も、カシミール(https://www.kashmir3d.com)と山旅倶楽部(http://www.yamatabi.net/main/index.html)で作成しています。作図についての詳細はこちらで↓。
http://banshowboh.cocolog-nifty.com/book2020/2021/01/post-9c5dee.html

19世紀の初め、大山寺の御師の一人が、大倉から蛭ヶ岳までを日帰り参詣登山した貴重な記録を鳥瞰図で読者の皆様にわかって頂ければと作図いたしました。

ちょうど先週、このコースの一部をトレーニングがてら歩いて来ました。文化2年(1805)に歩いた佐藤さんは、富士山・愛鷹山・箱根山・伊豆を拝めたのでしょうか?書き残していないところをみると天候に恵まれず拝めなかったのかもしれません。この絶景を見たならば書き残すだろうと思うのです。
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2021年11月29日 (月)

103ページの写真「那智の滝」

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2003年9月12日、初めて拝む那智滝に圧倒されながら写真を撮影しました。大峰奥駈修行中に携帯していた当時のカメラの保存容量が少なかったためにわずかしか撮影していないのが残念。

参拝所に写っている山伏さんたちは大峰で同行だった方々です。31ページの写真「熊野本宮大斎原と大峰の山々」にも思い出話を書きましたが、大峰修行の最後の行事(熊野三山巡拝、これはバスで移動)の最終ポイント那智で同行だった皆様と別れ、自分は単独行動のフィールドワークを開始しました。

まずは、午後からこの那智滝の上へ。那智滝は江戸時代までは「飛瀧権現」という神名で信仰されていました。もしやそれは海(熊野灘)の船上から滝を遥拝した人々が山中を飛ぶ神仏の柱のように見立てたネーミングではないかと勝手に妄想し、ということは、滝の上からも熊野灘の海原が見えるはずだと、山道を登っていきました。

結論、滝口へは近付けませんでした。神聖でなおかつ危険な場所なので当然でした。ただ、この大滝は一ノ滝で、この上流には二ノ滝、三ノ滝をはじめ立派な滝群が「那智四十八滝」として存在しています。そして、感動したのはこの上流部の原生林の森の豊かさです。この大滝の上に魚の大群が泳ぎ回っているとは想像もしていなかったので、ただただわーっと声を出して見とれてしまいました。アマゴ?タカハヤ?どなたかご存じでしたら種類を教えて下さい。

2021年10月27日 (水)

90ページの写真「日向山の森から大山山頂を望む」

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日向山と日向薬師周辺は紅葉も美しいです。それも藤野集落まで歩行者しか通行できない日向川に沿った道を歩いて訪れると素晴らしい景色に出会えます。もうすぐ秋が深まって紅葉シーズンです。

行基が薬師如来像の良材を探し回ったという縁起の舞台、日向山の森です。本書では現代語に訳してご紹介したので、国立公文書館蔵『相州大住郡日向薬師縁起』仮名交り文のその部分の原文を以下引用します。
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…(前略)…
汝に囑す勉て我か相を模して此を将来に貽せ
其これに帰しこれを禮する者衆病悉く除き亦心疾を治せん
於是汝か情素満し我か願も亦足なん
然して後ニ利益備ハり能事此に畢なん
因て樹葉(相伝て梅椿檀の葉といふ)を與て曰
樹葉の至る所即ち汝か止る所
汝か止る所是我か像の存する所ならんと言終て即ち隠れ給ふ

基未曾有なる事を得て礼拝讃揚し喜感心に徹し渇仰声を起す
遂に乃ち佛語に任せて樹葉を擲るに其葉揺々曳しとして
此山に止る(伝らく今堂前の三株樹ハ是其遺蘖なりと)

爰に良材を求て像を造らんと欲して周く山澤を訪ふに得る所なし
時に二の神人有て数尺の香木を持し来て基に授て曰
此ハ是古昔佛世に優填王釋尊を仰慕して
天工をして尊像を刻しめし餘材なり
石槨に封閉して今猶朽ず吾儕熟師の誠心を感じて
特に力を運てこれを得たりと
基乃ち歓喜してこれを受て相約して言く
冀ハ英霊を此に崇めて永く我か寺の護法とせん
其姓名を問へハ則ち曰
熊野権現白髭明神なりと今山門の左右の二社是なり
…(後略)…

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この縁起の全文の翻刻は拙稿「『相州大住郡日向薬師縁起』仮名交り文縁起について」(『山岳修験』第67号、日本山岳修験学会、2021)に掲載いたしましたので、ご興味のある方はぜひお読み下さい。

2021年9月21日 (火)

79ページの写真「子易明神の社叢と大山」

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『新編相模国風土記稿』にはここ子易明神の境内図も描かれているので、これも、陸軍文庫本・内閣文庫本・刊行本それぞれの挿絵を比較したら違いがわかって面白いだろうなあ、と思いましたが、如何せん、上糟屋村が掲載されている巻之四十四(大住郡巻之三)の原本(陸軍文庫本)は前回ご説明した事情から入手しておりません。

伊勢原市の市史編纂でも内閣文庫本が一番正確なはずという誤った信念から内閣文庫本がそのまま使われたのが残念。ここは市民の税金を有効に活用するために陸軍文庫本の複写紹介に舵を切って頂きたいと思いますが、自分は伊勢原市民ではないのでそれ以上は申し上げられません。

大山山頂へ真っ直ぐ伸びる参道と拝殿は、ここが古代中世の大山遥拝の社から始まっているに違いないという感覚的確信を呼び起こします。境内には、江戸時代にもご神木とされていたケヤキ(欅)の他にも、伊勢原市の保存樹木になっている見事なナギ(梛木)の木もあって、熊野信仰の影響と思いますがお守りに葉っぱも入れていらっしゃるそうです。

個人的には、一番奥に生えているカゴノキ(鹿子の木)も見事だと思います。
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