写真

2022年6月 2日 (木)

大山町調査(伊勢原市)その2

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本日も天保6年(1835)『大山地誌調書上』に記録されている石造物を調べに大山町まで出張。大山寺の受付の方と貴重な情報交換も出来て良かったのですが、山から良弁滝のあたりまで下って来たら、消防車が停まって消防士の皆さんが何か作業してるな?とふと川の向こう側の良弁滝に隣接する「かめ井旅館」さんの方に目を向けてみたら、月曜日にはあった建物がこのようにすべて消えていました。よく見れば辺り一面焼け焦げて焼失していることがわかりました。

立入禁止ロープが張られた火事場から出てきた近所の方らしき方に聞けば、なんと一昨日の朝、火事で燃えてしまったそう。びっくりいたしました。ニュースを検索したら確かに!

https://www.fnn.jp/articles/-/368625

その近所の方は親戚で、「かめ井旅館」さんの飼い猫が見つからないから探していらっしゃるとのこと。

かめ井旅館さんは、天保6年に江戸幕府地誌調所に提出した『大山地誌調書上』では「本山京都聖護院末流 同六角住心院触下」「修験御師兼帯」「天台宗 藤之坊」とあります。その当時は後継ぎが絶えていたのか「当体無之ニ付」「後見 久蔵」さんがこの報告書を書いています。そして、良弁滝と良弁堂周辺の諸堂はこの藤之坊の支配下にありました。

大山のふもとに江戸時代の終わりまで続いた希少な山伏にゆかりの場で大変な災難。人的被害がなかったのがせめてもの救い。

2022年5月30日 (月)

大山町調査(伊勢原市)

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本日は天保6年(1835)『大山地誌調書上』に記録されている石造物で現存しているものがあれば写真におさめようと大山の麓まででかけました。

享保12年(1727)の夏、大山のふもとに石碑が建てられました。当時、大山山頂に祭られていた石尊権現(今は阿夫利神社本社)は救済の仏様、十一面観音菩薩でもあるとされていて、その記念碑のような石碑。その十一面観音を祭っていたお寺の跡地に、300年の時を超えてその石碑はまだ現存しています。「石尊御本地」とはっきり読めます。でも、ご覧のように今は横倒しになって単なる物置台。

この話も含めて、万象房で事務局を務めている相模国霊場研究会の第6回を6月6日(月)に相模大野で開催いたします。現在14名ご参加予定。5/31まで申し込みを受け付けています。ご興味のある方いらっしゃいましたらご連絡ください。
http://banshowboh.world.coocan.jp/sagami_study/

2022年4月30日 (土)

139ページの写真「明治三年の八菅山伏の碑伝」

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この碑伝の写真は表紙でも使用していますのですでにこちら↓でご紹介済みです。
http://banshowboh.cocolog-nifty.com/book2020/2020/11/post-901fd5.html

本文の以下修正箇所のみ、重要なので再度繰り返します。
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138ページ7行目:×「宝作(=豊作)万歳」→〇「宝祚(=明治天皇の位)万歳」
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(聖護院門跡 宮城泰年ご門主、上智大学 西岡芳文教授 からのご指摘)

2022年4月27日 (水)

137ページの写真『相州八菅山書上』

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国立公文書館蔵『相州八菅山書上』については、すでに2020年10/6の「表紙の写真その2『相州八菅山書上』国峰修行」で取り上げました。

http://banshowboh.cocolog-nifty.com/book2020/2020/10/post-de4bfc.html

その時も、書きましたが、まだ未公開だったこの『相州八菅山書上』は私が4,480円をお支払いしてスキャニング作業を行って頂きました(2017年7月)。そして今は、国立公文書館のデジタルアーカイブでどなたも無料で(!)閲覧&ダウンロード出来るようになっているのであります(くどい?)。

私の出費が世のため人のために役に立っているのだから納得いたしまーす(貧乏人の・・・?)。

2022年4月 4日 (月)

134ページの写真「里山伏の末裔の家に伝わる切紙」

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これは厚木市下荻野にあった修験寺院 光善院(本山派、小田原玉瀧坊霞下)に伝来した寛政2年(1790)の史料で、厚木市郷土資料館(現在はあつぎ郷土博物館にリニューアル)が2002年に行った企画展「相模の修験者」で展示されていたものです。もと館長の大野先生から写真を送って頂きました。各種の護身法(行者が身を堅固に守護する呪法)が伝授されていたようです。

この前後のページも見てみないと全体がわかりづらいのでそのうち拝見したいなあと思っていて、大野先生には先日お願いの電話をしました。
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  唵 ソテイザ■リ(?) 以上五印 真言一度

次 九字印
  一 二 三 四 五 六 七 八 九
  臨 兵 闘 者 皆 陣 烈 在 前

   以上九印 一印ニ一字ヅゝ唱フ

   右ノ一ヨリ九マデ印結ビヲワツテ九字ノ
   前ノ字ノ印ニテドゞメ左ノ鞘ノ中へ種
   々ノ祈願ヲコメ鞘ノ下ヘアテタル刀
   印ヲ鞘ノ手ノ上アテ替テ蓋ヲシタ
   ル如クカタクヲサエソレヨリ右ノ刀印
   ヲ宝釼トミナシ一ニ三ノ圖ノ如ク三度
   クリカヘシ刀印ニテ切ルナリ

次 金剛縛印 真言口伝 六字明王咒唱
  オンギャチギャチギヤビチカンチタチ
  バチソワカ
  天竺ノ天ノフリナワヲロシタマヘ印ヲ結ヒ
  タルマゝ中央左右ト一度ツゝ押スベシ

次 護身印真言
  ニ手内相又右押左ヲ堅ニ中指ヲ屈シテニ頭ヲ
  如釣形於中指背勿令相着並大指押無名
  指印五処額右肩左肩心喉散頂

  オンハジラギニハラジツハダヤソワカ

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最後の真言は、被甲護身の真言で、現代で一般的に使われている発音とは違う模様。昔は流派によって多様に発音されていたのだと思います。例えば「ハジラギニ」は現代の真言宗のテキストなどでは「バザラギニ」と表記されていますが、もとはサンスクリットの"vajra agni"(「金剛」(ダイヤモンドのように堅固な)「火の神アグニ」)なので、この切紙の発音の方がインドの発音に近いと思うのですが。

その前の六字明王の真言は、梵字マントラで書いてあるのが珍しいのでは?六字明王そのものは11~12世紀の白川院政期に上皇の周辺で創造された純日本産の尊格らしいのですが、怨敵からの難に対抗することが出来る呪文は漢訳経典のいくつかに「佉知佉注佉毘知緘寿緘寿多知波知」として伝来していたようです。ただこの呪文を唱える時の本尊を六字明王としていたのは真言宗の中の限られた一派(小野勧修寺流)だけだったらしいです(上川通夫「『覚禅鈔』「六字経法」について」『愛知県立大学文学部論集』54巻 2006 参照)。

それが江戸時代には荻野の天台宗系の山伏さんにも伝わっていたぐらいポピュラーになったのでしょうか。これも発音は濁らず「キャチキャチュウ・・・」の方がもとの発音に近いんでしょうか?

六字明王のお姿はなかなか変わっていて『大正新脩大藏經図像部第3巻』(SAT大藏經テキストデータベース研究会「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」https://dzkimgs.l.u-tokyo.ac.jp/SATi/images.php?vol=03)でも閲覧できます。

2022年3月21日 (月)

132ページの写真「雄仁親王からの拝領品を納める菊紋と桐紋の入物箱」

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江戸時代という強固な身分制社会の中で、天皇猶子の宮門跡本人が自ら直接訪ねて来る村、菊紋と五七の桐紋の箱に入った下賜品を直接もらえる人たちが住む村というのは、まずめったに存在していなかったと思います。他に、そのような事例があったら教えて下さい。

いまや普通のお百姓さんにしか見えない(失礼m(_ _)m)八菅山伏のご子孫のお一人が、先祖はこんなのもらってるんだよ、と見せて下さった時に、それはもう驚愕いたしました。中身は秘密です。

「宗門の頂上身分」(杣田善雄「門跡の身分」『〈江戸〉の人と身分3 権威と上昇願望』吉川弘文館 2010)である門跡の中でも最高位に属する宮門跡が八菅山にやって来た。現代人の感覚を超える事件だったのだろうと思います。

2022年3月14日 (月)

129ページの写真「開山上人の籠もり岩屋と友人シモン・ピエール」

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ここ浄発願寺は1938年(昭和13)に山津波の被害にあって、かつての中心堂宇礎石や石仏群、そして岩屋が奥の院として遺跡のような形で残されています。大山~日向薬師周辺の山歩きをされる方は一度は訪れるスポットです。浄発願寺はその後、もっと下流の方に移転して現在は立派な三重塔を構えるお寺へと発展しています。

安土桃山~江戸時代初期の木食の念仏行者、弾誓(たんぜい、たんせい)上人が修行した岩屋は、このお寺の始源の場として最も重要な聖地であったはずです。もちろん今でも燈明の火を絶やすことなく供養が行われていると思います。そして、弾誓上人の弟子たちがその教えを継いで成立した寺院や石造物は全国に存在し、丹沢周辺でも箱根の弾誓上人修行窟、真鶴岩の但唱上人岩窟石仏群(こちらは崩落の危険があって現在立入禁止)などがあります。弾誓上人の法灯は、その後、宗派としても天台宗弾誓派や浄土宗捨世派として教団化もされました。現在の浄発願寺は天台宗弾誓派の総本山です。

この岩屋の前で写真に写っているシモン・ピエール氏と知り合ったのは、2004年(平成16)、京都聖護院の2階の部屋でした。翌日から始まる葛城修行の前乗りで、聖護院の2階に宿泊した時に布団が隣同士でした。日本の山岳宗教や修験道は世界的にもそれなりに注目されている文化です。宗教学や文化人類学の外国人研究者が来日して山岳修行に参加することは珍しくありません。フィールドワークは宗教学や文化人類学にとって欠かせません。

シモン・ピエール氏はフランスのトゥールーズ大学大学院に籍を置いていました。日本武道家でもあり、各種武道の有段者で、トゥールーズに自分がオーナーを務める日本武道の道場を持っていました。ただ、その割に日本語がそれほど達者ではなく、そこで、言葉や現象の説明や文献探しのお手伝いをよく頼まれました。それに、丹沢周辺のフィールドワークに一緒に出掛けることもありました。懐かしい思い出です。この写真は2004年夏、ピエールは9月の大峰奥駈修行のために早めに来日していました。この時は、岩屋から車道まで下って来たらピエールの足でヤマビルが吸血していました。
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ピエールはいつも私の話を録音していました。そして、日本語が達者な奥様にそれを聴かせてフランス語に翻訳してもらっていたらしい。名古屋大学で西洋哲学の教鞭をとっていた奥様も大の日本通で書道とお琴のお師匠さんの免状をお持ちでした。そして、お琴の発表会が町田で開催されたことがありました。その時、初めてお会いして「私はあなたの声をよく知っています」と言われてびっくりした事があります。

ある時、国立国会図書館のレストランでピエールと昼食を共にしている時に、合気道の自分の師匠は日本人のタムラ先生だという話を聞きました。フランスで一番有名な合気道家だと。その時、自分の子供の頃の記憶がちょっと蘇りました。父親が若い頃に三重県の学校に勤めていた時の教え子で、良く家に遊びに来ていた人が合気道家になってフランスに渡ったという話があったなあ、と。すぐに父親に電話しました。まさしくタムラさんでした。父親も、私も、ピエールも、みな絶句してびっくりいたしました。国際的奇遇です。

そのタムラさんもその後病気で亡くなったそうです。そして、ピエールも2015年5月3日にフランスのご自宅で病気で亡くなりました。合掌。
万象房が始まって半年ぐらいの時(2007年夏)に、訪ねて来てくれた時の写真がありました。若いなあ。
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2022年3月 8日 (火)

127ページの写真「伊勢原市日向の道しるべ庚申塔」

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 天明元歳(1781)
 丑六月吉日

庚申塔

 右 いい山
 左 やくし 道

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九州の山伏、野田泉光院が、飯山観音、日向薬師、大山寺を訪ね歩いた頃、巡礼峠~日向薬師の辺りにはたくさんの道標が建立されていて今でもその道標の文字を判読できるものも少なくありません。それだけ多くの参詣者が歩いていた証拠です。

お陰様で、現代でも、この辺りをフィールドワークする時の楽しみの一つになります。そして、巡礼者・参詣者を迎え入れていたこの地域の人々の信仰とホスピタリティを感じることも出来ます。

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これは泉光院が歩いた時にはまだ建立されていません。
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 右 いい山
 左 ひなた 道

南無阿弥陀仏

 文政十丁亥(1827)
 十月 日

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これはちょっとルートからは外れるので泉光院も見ていないと思います。
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 右ハ ひなた道
 左ハ 大 山 道

(青面金剛像)(三猿)

 判読不能

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 明和六己□年(1769)
     三月吉日

(青面金剛像)(三猿)

 此方 いい山み□

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     寛保ニ壬戌(1742)□月吉日

庚申供養 右やくし道

     左一之沢大山みち

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2022年2月27日 (日)

125ページの写真「現在の八菅山遠望」

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中津地区から八菅山を展望すると奥に経ヶ岳が望めて、手前には八菅山光勝寺の結界とも考えられる中津川、昔から好きな景観なのですが、解像度の高い良い写真を撮っていなかったのでこの程度で申し訳ない感じです。

自分の高校時代の剣道部の主将が中津の熊坂君だったので、中津地区にはたまに訪ねることはありましたが、八菅山についてはかつては正直あまり意識していませんでした。それが、俄然、注目することになったのは、神奈川ヒマラヤ登山隊長だった広島三朗さん(地理学)の影響です。

当時、『地球の歩き方 パキスタン編』(ダイヤモンド・ビッグ社)を一人で書き上げていたほどのパキスタンの専門家で、その他にも『神奈川県の山』『山が楽しくなる地形と地学』(山と渓谷社)、『K2登頂幸運と友情の山』(実業之日本社)など、登山家ながら執筆活動にも熱心で、一度退職してK2に登って来てマスコミに英雄的に評価されたのを活用してまた神奈川県の教員に戻るという離れ業をやった伝説の高校教師です。

相模台工業高校の職員室で机を並べていろいろな事を教わり、特に野外フィールドワーク授業のノウハウは感動すら覚えました。広島さんが、職員室で授業の合間に出版社向けの原稿を周囲の眼など気にもせず書きまくっていた時、「丹沢のガイドブックに歴史情報も書き加えたいんだけれど、城川さん、日本の宗教思想史専門だったら八菅や丹沢の山伏について調べといてよ」。その言葉が遺言のようになりました。その年1997年(平成9)夏、ヒマラヤ遠征で、登頂成功後のベースキャンプを大きな雪崩が襲い、隊員の仲間とともに亡くなりました。合掌。

それから20年後、第38回日本山岳修験学会山北・丹沢学術大会(2017)で「聖護院蔵『相州八菅山付属修行所方角道法記』と入峰空間考」というタイトルで研究発表をいたしました。その内容は「「相模の国峰」再考-相州愛甲郡八菅山付属修行所方角道法記』と『相州八菅山書上』」(『山岳修験』第62号)という論文になっています。
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広島さんの遺言の約束を一つ果たしたような気がしたのでした。

ところで、今年3月5日から予定されていた日本山岳修験学会第41回 富士山学術大会が諸般の事情により残念ながらオンライン開催に変更されました。その研究発表の中に5年前の自分の発表と全く同じタイトルを発見!びっくり仰天、しかも和歌山熊野の山本先生!とても楽しみです。ただ、発表日の3/6(日)は万象房の仕事をしながらになってしまったので、拝聴出来るかどうかが微妙なところです。

☆3/2追記:同じタイトルだったのは学会事務局の作業ミスによるものと判明いたしました。山本先生のご発表正式タイトルは「那智参詣曼荼羅再考」でした。どうも以前の書類を上書きしながら作業をしているうちに5年前の私のタイトルが残ってしまっていたらしいです。拍子抜けいたしました。

2022年2月14日 (月)

123ページの写真「ふたつはし」

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伊勢原市子易と大山町の境にあるこの「二ツ橋」という地名の初出が『廻国雑記』であることは、江戸時代『新編相模国風土記稿』上子安村の小名「ニツ橋」の条や現代の伊勢原市発行の史跡案内などでもわざわざ道興の歌を取り上げていることからも確かなのだろうと思います。

当時、二つの橋が「かけ並べ」てあった景観がどのようなものかは確かめようもありませんが、近代(現代?いつ道路が付け替えられたのかご存じの方がいらっしゃったら教えて下さい)の新道架橋工事の結果、今、二つの橋が旧道と新道に「かけ並べ」てあるというのはとても面白いと思って掲載した写真です。

この小流は「大久保沢」で大山川(鈴川)の支流です。その名前から、もとは大きな窪地の谷地形だったのかもしれないと思いました。

ところで、小流の名称は登山の沢登りの対象になっている沢ならば名前がすぐみつかりますが、なかなかわからない時は、神奈川県「土砂災害警戒区域・土砂災害特別警戒区域の法定図書など」で調べたりします。

この地図↓では、大久保沢に新旧2つの道路がかかっているのもよくわかります。
土砂災害警戒区域等指定図(渓流名:大久保沢)

なお、おまけ情報として、旧道の方には、安政三年の文字碑道祖神が立っています。

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