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2022年1月 3日 (月)

112ページの写真「尊仏岩あと」と「拘留孫仏」「倶留孫仏」「拘樓秦佛」「迦羅迦村駄佛」「krakucchandha-buddha」

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この写真の撮影は2015年8月12日の10時15分ごろ。塔ノ岳には9時過ぎには登って来ていたので、もっと早い時間に撮影して次の撮影場所へ向かおうと思っていましたが、尊仏岩跡を見つけ損ねて斜面で迷って山頂まで直登してまた下ってを繰り返すこと3回。方向音痴丸出しでやっとたどり着きました。尊仏岩跡では毎年祭祀も行われているようですし、普段から多くの登山者も訪ねています。父親も昔行ったと言っていたし、陸軍陸地測量部の地形図にも出ているし、ウェブ上で記録を残している皆さんの地図なども目にしたし・・・しかし、結局一時間以上さまよう羽目になる体たらくでした。

江戸時代後期から明治時代ごろと判断できる石造物が3基。文字塔には「梵字アン 尊佛」、いかにも素人の作。なぜ「アン」なのかは不明(因みに、現在、山頂の平成「拘留孫佛如来」は「アーンク」になっています)。あとの2基は首なしの如来型座像。そのうち1基は本書でご紹介した『尊仏山方之事』の佐藤さんが文化2年(1805) に目撃した大日尊の可能性が高いと思います。いずれにしても、3基とも山伏の入峰修行に関わるものではなく、江戸時代の18世紀後半~明治時代に盛んになった在俗の行者さんたちや尊仏参りの参詣者、またはそれに関わった僧侶などの奉納物と判断しています。

タテにそびえる巨岩を「拘留孫仏」として信仰する事例は全国で数々報告されていますが、そのルーツはやはり経典にあるのだろうと思います。

里からは見えない行所・行場が信仰対象になっていくパターンは(里から拝める場合は話は別です)、まず山伏たち山岳修行者が修行エリアの行所・行場に仏教的意味付けをするのが第1段階。江戸時代後期~明治時代になって一般庶民の登拝習俗や民間の行者さんがその山伏の信仰を受容するのが第2段階、登拝した人々からまだ行っていない山麓の里人にもその行所・行場の存在が知られるようになって信仰が広まって行くのが第3段階。これは「拘留孫佛」に限らず、不動明王だったり摩利支天だったり、~童子だったり、と全国には様々な事例があります。山伏の中には里人を引き連れて行所・行場に案内して修行体験させる先達業務を行う人もいました。

そこで、塔ノ岳の語源は江戸時代の山名「塔ノ峰」で「塔」は尊仏岩ではなく山頂にあった小さめの「弥陀薬師ノ塔」(『峯中記略扣 常蓮坊』)ですが、いずれにしても「塔」のような岩と「拘留孫仏」を結びつける連想はどこから来ているのだろうと以前から考えています。

現在、仏教経典のテキストは「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」(SAT大藏經テキストデータベース研究会)のおかげで、横断単語検索が出来る時代になりました。「拘留孫仏」と検索しただけで、多くの経典にこの仏さんが登場していることがわかります。しかも、この仏はインドでも大乗仏教成立以前から信仰されている「krakucchandha-buddha」で、その表記も「倶留孫仏」で検索してもたくさん。検索中の中ではこのあたりには注目中。
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『根本説一切有部毘奈耶藥事卷第十七』

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拘留孫佛時 有造彼佛 時我爲傭力 常與他雇作
作此之時 我頻出惡語 何用斯大 豈有得成期
宜微小作 不應廣費損 省功無憂惱 而得速成就
由斯口業故 説此麁惡言 臨終既命過 墮於地獄中
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仏典以外でも『高僧法顯傳』では「拘樓秦佛」、玄奘『大唐西域記』では「迦羅迦村駄佛」と表記されていて、古代中国からインドを巡礼した三蔵法師たちはこの「krakucchandha-buddha」を供養するための塔が建っているのを目撃しています。ただし、どの仏陀も同じように供養に塔が建てられています。びっくりするのは、過去仏の信仰でありながら、この仏さまが生まれ育った町や入寂した場所や入寂の様子までが古代インドでは真実として信仰されていたという驚きの事実。一つだけご紹介。
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『高僧法顯傳』(『隋書』経籍志では『仏国記』)

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調達亦有衆在常供養過去三佛。唯不供養釋迦文佛。
舍衞城東南四里琉璃王欲伐舍夷國。世尊當道側立立處起塔。
城西五十里到一邑名都維。是迦葉佛本生處。父子相見處。般泥洹處。皆悉起塔。迦葉如來全身舍利亦起大塔。
從舍衞城東南行十二由延到一邑名那毘伽。是拘樓秦佛所生處。父子相見處。般泥洹處。亦皆起塔
從此北行減一由延到一邑。是拘那含牟尼佛所生處。父子相見處。般泥洹處。亦皆起塔。
從此東行減一由延到迦維羅衞城。
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そして、大正時代には、玄奘『大唐西域記』のコースを訪ねた日本人宗教者(サンスクリット・インド仏教研究者)がネパールでこの「krakucchandha-buddha」生誕地の塔跡地をここに違いないと撮影しているのです!
これは国立国会図書館で公開されています。岡教邃『印度仏蹟写真帖』(1918)
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以上、古代インドと丹沢山地の不思議なつながりのお話。

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