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2022年1月

2022年1月31日 (月)

117ページの写真「秦野市堀西から見た塔ノ岳と丹沢表尾根」

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子供の頃、冬になれば毎年見ていた当たり前の景色。特に河岸段丘の森に囲まれた四十八瀬川からの景色は格別です。

1960年代の四十八瀬川にはまだ清流魚のカジカがたくさんいました。夏休みには水中眼鏡と銛とお醤油を持って川に行き魚を捕まえて、川べりの焚火で焼いて食べたりもしました。上流にあった釣り堀?養殖場?から逃げて来たらしいニジマスを見つけて皆で懸命に捕獲作戦をしたこともありました。ヤマビルなんてまだ一匹もいなかった時代です。

秋になれば秦野西小学校の図画工作の野外授業でよく四十八瀬川に写生に出かけました。紅葉の森とその奥にそびえる丹沢山地を必ず描かされたように記憶しています。そして、冬になれば、稜線に近い上の方からだんだんと雪で白くなっていきます。今よりも積雪が多かった時代です。

小学校の校歌にも中学校の校歌にも歌詞の中に「四十八瀬川」がありました。特に秦野西中学校の校歌は、地元出身の歌人・国文学者 谷 鼎(たにかなえ)の作詞です。子供の頃からの見慣れた風景を念頭に置いて詞を書いたのだと思いますが、「丹沢」は出てこない。当たり前すぎて必要なかったのかもしれない。
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秦野西中学校校歌
作詞:谷 鼎 作曲:吉岡孝之

近くあふりね遠く富士 高きわれらの希望ぞと
日毎あおぎてふるいたつ 若き力は今ここに

四十八瀬の川の音 清きわれらの心ぞと
日毎聞きつつ励み行く 若き力は今ここに

仁者は山を楽しむと 智者は水をば楽しむと
麗しきかなこの自然 たのまんかなやこの大地

新しき世をおこしては 世界の平和打ち建てん
自主協同を志す 若き力は今ここに

2022年1月23日 (日)

116ページの写真「不動ノ峰から蛭ヶ岳への尾根筋」

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「不動ノ峰」は、日向山霊山寺の山伏が「宿」(キャンプ地)としていた不動尊を祭る「神前ノ平地」(『峯中記略扣 常蓮坊』)、また、文化二年(1805)の佐藤さんたちが「不動嶽」と呼んでいた「イタツテ平チ也ル所」(『黒尊佛山方之事』)、つまり「不動ノ平」を登り詰めた峰ということで明治以降そう命名されたのだと思います。「不動ノ平」(「神前ノ平地」「不動嶽」)については22ページの写真「不動ノ平」でも触れました。

この写真は、2016年8月13日6時48分撮影というデータになっていました。宮ヶ瀬湖(清川村)から丹沢湖(山北町)まで歩く調査撮影山行。お盆の時ぐらいしかじっくり山に入る暇がなかった頃で、その時のレポートはコチラ↓
http://banshowboh.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/2016-12df.html

その頃、本を書くつもりだったのか、とびっくり。それどころか次々に新出史料が発見されて論文書きで精一杯になることをまだ知らない自分。それにしてもこの一枚は『黒尊佛山方之事』の記述がピンとくる景観写真だと思うのです。

この時の成果は拙稿「丹沢山地・蛭ヶ岳と山岳修行者の空間認識」『山岳修験』第58号 日本山岳修験学会 2016をご参照ください。

2022年1月20日 (木)

講演会「相模国霊場研究と『新編相模国風土記稿』原本の存在」(あつぎ郷土博物館、2022年1/23)中止

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ただ今、厚木市から連絡が入りまして、あつぎ郷土博物館で今度の日曜日に予定されておりました私の講演会は、まん延防止等重点措置のため中止が決定されたそうです!
 昨年2月に予定されていた「中世の山伏(修験者)と異界の出入り口、山岳マンダラと江ノ島淵」の緊急事態宣言中止に引き続き2年連続で当たってしまいました。残念・無念・がっかり、ショック・・・。博物館のスタッフ・学芸員の皆さんもそうでしょう。お察し申し上げます。企画展示そのものはあるでしょうからそのうちお訪ねしたいと思います。

2022年1月11日 (火)

114ページの写真「竜ヶ馬場から見た大山」

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文化2年(1805)に佐藤さんが大山を遥拝した辺りは、日向山霊山寺(伊勢原市)の山伏は入峰修行の中で「竜ガ馬場」と呼んでいました。佐藤さんは気付かなかったのかもしれませんが、ここに龍樹菩薩が祭られて碑伝が納められていたようです。日向山伏の常連坊が書き残した『峯中記略扣』には、尊仏岩の次の行所としてこうあります。
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是ヨリ登リ龍ガ馬場也此所百間程ノ長サニ而広ハ五間位ノ馬場ノ形也此中所ニ竜樹菩薩ノ尊有是ニ札納而モ此馬場ニ而竜樹ボサツ馬ニ御ナリ相成候ト云伝也

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馬の話が出てきますが、これはもちろん信仰上の神話です。山伏たちが名付けた地名が現代の登山地図にそのまま使用されている例は本書で紹介しています。この写真は2005年4月6日の昼前に撮影したデータ記録になっています。当時持っていたカメラが安物なので画質はイマイチですが、本書で使った写真にフォトショップでつなげてパノラマ写真も当時作ってあったのでここではそれを掲載します。

ところで、まず馬が登って来られそうにないところに「馬場」がつく地名が多いのは北陸の白山だと思います。『白山山頂遺跡群調査報告書』(石川県白山市教育委員会、2011)によれば、まず山頂へ向かう3本の禅定道(登拝ルート)の始点が「美濃馬場」「越前馬場」「加賀馬場」。山中では、美濃禅定道には「南竜ヶ馬場」、越前禅定道には「相撲の馬場(仕舞の馬場)」、加賀禅定道には「北竜ヶ馬場」。山中の「馬場」地名とその神話は中世山伏の広域修行ネットワークを通じて丹沢山地にも運ばれて来たんだろうと思っています。

そして白山にまたいつか登ってみたい。これも2005年秋の思い出写真
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2022年1月 4日 (火)

厚木市立あつぎ郷土博物館「相模国霊場研究と『新編相模国風土記稿』原本の存在」

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1/23(日)に厚木市立あつぎ郷土博物館「『新編相模国風土記稿』が描くあつぎ」展の中で講座「相模国霊場研究と『新編相模国風土記稿』原本の存在」を担当いたします。
ご興味のある方はコチラまで↓
https://www.city.atsugi.kanagawa.jp/atsugicitymuseum/schedule/27375.html


2022年1月 3日 (月)

112ページの写真「尊仏岩あと」と「拘留孫仏」「倶留孫仏」「拘樓秦佛」「迦羅迦村駄佛」「krakucchandha-buddha」

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この写真の撮影は2015年8月12日の10時15分ごろ。塔ノ岳には9時過ぎには登って来ていたので、もっと早い時間に撮影して次の撮影場所へ向かおうと思っていましたが、尊仏岩跡を見つけ損ねて斜面で迷って山頂まで直登してまた下ってを繰り返すこと3回。方向音痴丸出しでやっとたどり着きました。尊仏岩跡では毎年祭祀も行われているようですし、普段から多くの登山者も訪ねています。父親も昔行ったと言っていたし、陸軍陸地測量部の地形図にも出ているし、ウェブ上で記録を残している皆さんの地図なども目にしたし・・・しかし、結局一時間以上さまよう羽目になる体たらくでした。

江戸時代後期から明治時代ごろと判断できる石造物が3基。文字塔には「梵字アン 尊佛」、いかにも素人の作。なぜ「アン」なのかは不明(因みに、現在、山頂の平成「拘留孫佛如来」は「アーンク」になっています)。あとの2基は首なしの如来型座像。そのうち1基は本書でご紹介した『尊仏山方之事』の佐藤さんが文化2年(1805) に目撃した大日尊の可能性が高いと思います。いずれにしても、3基とも山伏の入峰修行に関わるものではなく、江戸時代の18世紀後半~明治時代に盛んになった在俗の行者さんたちや尊仏参りの参詣者、またはそれに関わった僧侶などの奉納物と判断しています。

タテにそびえる巨岩を「拘留孫仏」として信仰する事例は全国で数々報告されていますが、そのルーツはやはり経典にあるのだろうと思います。

里からは見えない行所・行場が信仰対象になっていくパターンは(里から拝める場合は話は別です)、まず山伏たち山岳修行者が修行エリアの行所・行場に仏教的意味付けをするのが第1段階。江戸時代後期~明治時代になって一般庶民の登拝習俗や民間の行者さんがその山伏の信仰を受容するのが第2段階、登拝した人々からまだ行っていない山麓の里人にもその行所・行場の存在が知られるようになって信仰が広まって行くのが第3段階。これは「拘留孫佛」に限らず、不動明王だったり摩利支天だったり、~童子だったり、と全国には様々な事例があります。山伏の中には里人を引き連れて行所・行場に案内して修行体験させる先達業務を行う人もいました。

そこで、塔ノ岳の語源は江戸時代の山名「塔ノ峰」で「塔」は尊仏岩ではなく山頂にあった小さめの「弥陀薬師ノ塔」(『峯中記略扣 常蓮坊』)ですが、いずれにしても「塔」のような岩と「拘留孫仏」を結びつける連想はどこから来ているのだろうと以前から考えています。

現在、仏教経典のテキストは「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」(SAT大藏經テキストデータベース研究会)のおかげで、横断単語検索が出来る時代になりました。「拘留孫仏」と検索しただけで、多くの経典にこの仏さんが登場していることがわかります。しかも、この仏はインドでも大乗仏教成立以前から信仰されている「krakucchandha-buddha」で、その表記も「倶留孫仏」で検索してもたくさん。検索中の中ではこのあたりには注目中。
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『根本説一切有部毘奈耶藥事卷第十七』

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拘留孫佛時 有造彼佛 時我爲傭力 常與他雇作
作此之時 我頻出惡語 何用斯大 豈有得成期
宜微小作 不應廣費損 省功無憂惱 而得速成就
由斯口業故 説此麁惡言 臨終既命過 墮於地獄中
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仏典以外でも『高僧法顯傳』では「拘樓秦佛」、玄奘『大唐西域記』では「迦羅迦村駄佛」と表記されていて、古代中国からインドを巡礼した三蔵法師たちはこの「krakucchandha-buddha」を供養するための塔が建っているのを目撃しています。ただし、どの仏陀も同じように供養に塔が建てられています。びっくりするのは、過去仏の信仰でありながら、この仏さまが生まれ育った町や入寂した場所や入寂の様子までが古代インドでは真実として信仰されていたという驚きの事実。一つだけご紹介。
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『高僧法顯傳』(『隋書』経籍志では『仏国記』)

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調達亦有衆在常供養過去三佛。唯不供養釋迦文佛。
舍衞城東南四里琉璃王欲伐舍夷國。世尊當道側立立處起塔。
城西五十里到一邑名都維。是迦葉佛本生處。父子相見處。般泥洹處。皆悉起塔。迦葉如來全身舍利亦起大塔。
從舍衞城東南行十二由延到一邑名那毘伽。是拘樓秦佛所生處。父子相見處。般泥洹處。亦皆起塔
從此北行減一由延到一邑。是拘那含牟尼佛所生處。父子相見處。般泥洹處。亦皆起塔。
從此東行減一由延到迦維羅衞城。
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そして、大正時代には、玄奘『大唐西域記』のコースを訪ねた日本人宗教者(サンスクリット・インド仏教研究者)がネパールでこの「krakucchandha-buddha」生誕地の塔跡地をここに違いないと撮影しているのです!
これは国立国会図書館で公開されています。岡教邃『印度仏蹟写真帖』(1918)
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以上、古代インドと丹沢山地の不思議なつながりのお話。

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