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2021年11月

2021年11月29日 (月)

103ページの写真「那智の滝」

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2003年9月12日、初めて拝む那智滝に圧倒されながら写真を撮影しました。大峰奥駈修行中に携帯していた当時のカメラの保存容量が少なかったためにわずかしか撮影していないのが残念。

参拝所に写っている山伏さんたちは大峰で同行だった方々です。31ページの写真「熊野本宮大斎原と大峰の山々」にも思い出話を書きましたが、大峰修行の最後の行事(熊野三山巡拝、これはバスで移動)の最終ポイント那智で同行だった皆様と別れ、自分は単独行動のフィールドワークを開始しました。

まずは、午後からこの那智滝の上へ。那智滝は江戸時代までは「飛瀧権現」という神名で信仰されていました。もしやそれは海(熊野灘)の船上から滝を遥拝した人々が山中を飛ぶ神仏の柱のように見立てたネーミングではないかと勝手に妄想し、ということは、滝の上からも熊野灘の海原が見えるはずだと、山道を登っていきました。

結論、滝口へは近付けませんでした。神聖でなおかつ危険な場所なので当然でした。ただ、この大滝は一ノ滝で、この上流には二ノ滝、三ノ滝をはじめ立派な滝群が「那智四十八滝」として存在しています。そして、感動したのはこの上流部の原生林の森の豊かさです。この大滝の上に魚の大群が泳ぎ回っているとは想像もしていなかったので、ただただわーっと声を出して見とれてしまいました。アマゴ?タカハヤ?どなたかご存じでしたら種類を教えて下さい。

2021年11月25日 (木)

101ページの絵図「江戸時代の松原明神と玉瀧坊」

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拙い手書きの絵図で恥ずかしいのですが、さすがに著作権上、『東海道分間延絵図』を写真複写してある東京美術本(児玉幸多監修 1978)をそのまま使う訳にもいきませんし、この印刷本では60.6%に縮尺されているため細かい字が読み取れないので、松原明神と玉瀧坊のあたりだけがわかるように自分で描いてみました。

『東海道分間延絵図』は『五海道其外分間延絵図並見取絵図』のうちの一つで、寛政十二年(1800)に幕府の事業として五街道をはじめ脇街道を含めた宿村で調査が始まったことがわかっています。詳しくは以下参照。
※杉山正司「『五街道分間延絵図』と『宿村大概帳』の制作」『郵政博物館研究紀要』第6号(2015)
※白井哲哉『日本近世地誌編纂史研究』思文閣出版(2004)

つまり、当時の国家の公式の縮尺1/1800絵図で、詳細で正確なところが魅力なのです。

玉瀧坊は、江戸時代が終わるとともに廃寺となり、松原明神も松原神社となって担い手も変わりました。しかし、昔のことがわからなくなってしまった現代になってもこの公式絵図が視覚的に当時を伝えてくれます。今の小田原市本町2丁目11番地~12番地一帯でしょうか。

30年近く前、まだ自分も不勉強だった頃、松原神社を訪ねて、昔の玉瀧坊はどこにあったのでしょう?などと質問させて頂いたことがありました。よくそういう質問をされるのですがわかりません、という事でした。現代の「神社」一般に(江戸時代以前の)昔のことを伺うのは無理なことが多いんだなあと実感した次第です。

2021年11月18日 (木)

99ページの写真「法螺貝と山伏」

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2004年(平成16年)の大峰奥駈修行、第59靡(なびき)「七曜岳」と第58靡「行者返」の間の下り急斜面ですぐ目の前の若い山伏の背中越しに撮影した一枚。奈良県吉野郡天川村と上北山村の境界になる稜線です。

確か、当時、彼は都内の某カソリック系有名大学の大学生で、この聖護院の修行だけでなく、一年の間に他の修験道教団の奥駈修行も複数かけもちしていて、君は修行マニアだねえ、という会話をした記憶があります。複数教団の山伏修行に参加するという事は、一年で数十万円をかけるという事で、しかも東京から飛行機を利用することもあると言うのにちょっと唖然とした記憶も。当時、自分は青春18きっぷと深夜バスで移動していたので。

そういうお金の使い方をする学生もいるのだあと思ったり、まず普段は遭遇することがない(自分の主観からすると)不思議な人生を送っていらっしゃる方々にたくさん出会える日々でありました。

2021年11月15日 (月)

98ページの写真「大山寺院坊跡の平場」

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山に入る方は皆さんご存じですが、大山を含めて丹沢山地で鹿を見かけることは珍しくありません。鹿を見かけると喜ぶ方も多いですが、私はがっかりします。この鹿が運ぶ吸血生物の気持ち悪さを身を以て経験しているから。それに鹿が増えすぎて自然環境も破壊されています。

それはともかく、慶長10年に実雄が開基と伝えられる八大坊があったこの平場(加工段)には、江戸時代には、大日堂(3間2尺×4間半)・護摩堂(2間1尺×3間2尺5寸)・大師堂(2間1尺×3間2尺5寸)・客殿(10間×7間)・土蔵(3間×2間)・鐘楼(1丈1尺×1丈1尺)といった建物が立ち並んでいました。入口の門は薬医門です。『大山地誌調書上』(天保6年)には山内の様子が詳細に記録されています。おそらく中世の頃もここに別当坊があったのだろうと思われます。室町時代に聖護院門跡道興が宿泊したのもここだったのではないかと推測します。

八大坊のすぐ前には7間×6間の二王門がそびえていました。そこから前不動に下る本坂(今の男坂)にも道の左右に平場がたくさんあって、聖観音堂・太神宮八幡春日鹿島合社・庚申堂・子之権現社・大日如来堂・地蔵尊堂・弥陀八幡社・虚空蔵堂・十一面観音堂・恵比寿大黒堂・弥陀如来堂・文殊菩薩堂・薬師如来堂・聖徳太子堂・如意輪観音堂・愛染明王堂・役行者堂・毘沙門堂・地神荒神堂・五智如来堂・八幡社・大日如来堂・閻魔堂・牛頭天王社・馬頭観音堂・勢至菩薩堂・地蔵尊荒神渡唐天神相殿・弥陀如来秋葉権現相殿・正八幡社・千体佛堂・弁才天社・七福神天神合社・文殊堂の「本坂末社三拾三箇所」の小堂社が祭られていました。

現在の阿夫利神社下社の境内となっているエリアには、大覚坊・常圓坊・喜楽坊・橋本坊・中之院・宝寿院・実城坊・授得院・養智院・上之院・廣徳院・大勧進・神力坊・光圓坊・宝光坊・長順坊・泉岳坊・祐順坊それぞれの客殿と庫裏や土蔵が立ち並んでいました。この中で中世から続く院坊は大勧進だけですが、中世の頃はさらに家族で生活する僧侶・山伏・俗人もここに住んでいたので、ちょっとした山上宗教都市の様相も見られたのではないでしょうか。

『大山地誌調書上』(天保6年)については、拙稿「相模の一山寺院と『新編相模国風土記稿』地誌調書上-大山寺と光勝寺-」(『山岳修験』第65号、日本山岳修験学会 2020)で取り上げていますが、長大な量なので、相模国霊場研究会で何回かに分けてご紹介しながら皆さんと詳しく勉強していきたいと思います。まずは2022年6/6の第6回研究会の予定です。

2021年11月10日 (水)

96ページの写真「法印の首塚」

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幼い頃、ここ青根に住んでいました。山梨県境、峠を越えれば道志村、蛭ヶ岳も檜洞丸も大室山も青根です。父親の職場は県立津久井高校青根分校。2016年に全焼してしまった神奈川県内最古の木造校舎青根小学校に同居していました(この小学校も閉校だそうです)。家はそのすぐ隣だったようです。

昭和30年代、津久井郡青根村が無くなり津久井町青根になってまだ間もない頃です。まず自動車そのものが珍しく、洗濯は洗濯板、夕暮れになるとムササビが飛ぶ、そんな環境です。当時は母親の実家三重県多気郡宮川村(私の出生地)に勝るとも劣らない自然の中です。

剣道の指導者でもあった父は、青根分校の剣道部を率いて県の新人戦か何かで強豪校を次々に破って会場を慌てさせたことがあったそう。理科教師として校庭で化学実験をしていたら大爆発を起こしてしまってちょっとした騒ぎになったこともあったそう。色々な出来事をよく聞かされました。

後に引っ越した秦野市渋沢から、小学生の頃、丹沢を縦走して青根まで歩いて行って青根の旧知の皆さんと旧交をあたためたおぼろげな記憶があります。その当時は、この尾根筋を江戸時代末までは修行していた山伏の事など、小学生では知る由もなく。後になって山岳宗教の研究を始めたら、あら青根に法印の首塚がある!紀伊半島吉野に行っても大峰の入口に青根ヶ峰がある!と、青根の地名に敏感になりました。津久井と吉野に青根があるのは偶然だと思いますが。

2021年11月 1日 (月)

第5回 相模国霊場研究会 無事終了いたしました。

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次回は2022年(令和4年)6月6日(月)午後の予定です。詳細は別途お知らせいたします。
http://banshowboh.world.coocan.jp/sagami_study/

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