79ページの写真「子易明神の社叢と大山」
『新編相模国風土記稿』にはここ子易明神の境内図も描かれているので、これも、陸軍文庫本・内閣文庫本・刊行本それぞれの挿絵を比較したら違いがわかって面白いだろうなあ、と思いましたが、如何せん、上糟屋村が掲載されている巻之四十四(大住郡巻之三)の原本(陸軍文庫本)は前回ご説明した事情から入手しておりません。
伊勢原市の市史編纂でも内閣文庫本が一番正確なはずという誤った信念から内閣文庫本がそのまま使われたのが残念。ここは市民の税金を有効に活用するために陸軍文庫本の複写紹介に舵を切って頂きたいと思いますが、自分は伊勢原市民ではないのでそれ以上は申し上げられません。
大山山頂へ真っ直ぐ伸びる参道と拝殿は、ここが古代中世の大山遥拝の社から始まっているに違いないという感覚的確信を呼び起こします。境内には、江戸時代にもご神木とされていたケヤキ(欅)の他にも、伊勢原市の保存樹木になっている見事なナギ(梛木)の木もあって、熊野信仰の影響と思いますがお守りに葉っぱも入れていらっしゃるそうです。
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