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2021年9月13日 (月)

75ページの写真「清瀧寺あと」

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ここ清瀧寺の「文政丙戌年」(文政9年、1826)「三月」の「地誌御用 御調書上帳」の書きかけの下書きのような控が愛川町郷土資料館に現存しています。内容は3ページほどで虫食いがかなりあって読めない所がたくさんあります。『新編相模国風土記稿』を編纂していた江戸幕府地誌調所から提出を命じられて作成したものです。

記載者は「相州愛甲郡毛利庄半原村 〇〇山真言宗 今大山不動院清瀧寺 相州鎌倉郡手廣青連寺末」(〇は虫食い)。そして「寛政十一未年(1799)九月十二日〇〇〇自火ニ而本堂並古書物木(?)不残焼失仕候」とあります。従って過去の記録が失われているのが残念です。『今大山縁起』のテキストだけでも残されていて良かったです。

最初に『今大山縁起』を読んだ時に、まさにデジャブで、この聖地表現はどこかで読んだような、いや、そんはずはない、という不思議な感覚でしたが、実はそれが『大山縁起』(大山寺縁起)真名本のテキストだったことに後で気付きます。江戸時代の『新編相模国風土記稿』で大山の山中の描写(つまり伊勢原市内)として書かれていたことが、実は愛川町の塩川滝の周りじゃん!と気付いたのはその何か月後の事でした。

なお、この清瀧寺不動堂の二十分一地割絵図面が残されていて、鈴木光雄『幕府作事方柏木・矢内匠家 半原宮大工矢内匠歴譜』(神奈川新聞社営業出版部、2009)に掲載されています、寛政期に焼失した後の再建時のものと思われます。

その後、明治時代になって廃寺となったわけですが、最後の住職は還俗して神職となりとんでもない犯罪をやらかしたことは知る人ぞ知る事件。かつては『観光神奈川見聞記』(神奈川県、1958)にまで書いてあった事件。先ほどの本でも紹介されています。ここでは触れないことにします。

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