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2021年9月

2021年9月29日 (水)

日本山岳修験学会『山岳修験』第67号「『相州大住郡日向薬師縁起』仮名交り文縁起について」

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昨年の緊急事態宣言中に仕上げた拙論が、日本山岳修験学会『山岳修験』第67号に掲載されました。タイトルは「『相州大住郡日向薬師縁起』仮名交り文縁起について」。江戸時代以前の日向薬師に伝来していた5種類の縁起を分析してその系譜を明らかにしたものです。

この一年半の間に、査読(審査)や修正などもあって、しかもこのコロナ禍での編集委員の先生方の今までとは違うご苦労もあったものと推察いたします。ご興味のある方はぜひお読み下さい。相模国霊場研究会の皆様と丹沢山麓自治体の図書館には抜き刷りお送りいたします。

2021年9月27日 (月)

82ページの図 「塔辻」地名 文政十二年 植田孟縉「鎌倉大概図」(『鎌倉攬勝考』)から作図

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江戸時代絵画目録という素晴らしいウェブページがあります。
http://andoh.la.coocan.jp
制作されていた方は、2020年にお亡くなりになったそうです(合掌)。このページを拝見して、植田孟縉という人物は画家としても一流の方だったことがよくわかりました。故人に深く御礼申し上げます。

そして、このウェブページの制作者も『新編相模国風土記稿』陸軍文庫本の複写を入手して公開していらっしゃっることに最近気付きました。ただし「稿本」と認識していらしたようですが。陸軍文庫本の存在に気付いていなかったのは神奈川県内のみかしらん?

それにしても、八王子千人同心組頭 植田孟縉(うえだもうしん)は偉人です。一流のフィールドワーカーであり、研究者であり、画家です。手がけた仕事は、この『鎌倉攬勝考』をはじめ、『新編武蔵国風土記稿』(多摩郡 他)・『武蔵名勝図会』(文政3年、1820)・『日光山志』(文政7年、1824、刊行は天保8年)、そしておそらく『新編相模国風土記稿』津久井県もと言われております。八王子周辺はもとより、鎌倉でも、栃木県日光でも、近世地誌編纂の達人として必ず名前が出てきます。

この『鎌倉攬勝考』の挿絵を植田孟縉が自分で描いていたかは存じませんが(ご存じの方は教えて下さい)、全く人任せとは思えません。恐れ多いとは思いましたが、ここでは「塔ノ辻」の地名表記がわかりやすいようにトレースさせて頂きました。

なお、『鎌倉攬勝考』では、「塔ノ辻」は「小町の北堺」(古えは大倉辻)、「建長寺、圓覺寺の門前と淨智寺の前」、「雪の下又鉄觀音の前」、「佐々目谷の東南の路端に二ツ」、の計7つが上げられています。現在では、鎌倉青年団が昭和初期に立てた佐々目ヶ谷の「塔ノ辻」石碑が知られています。ここでは本書でも触れた染屋太郎伝説。もとは鎌倉の市街地と郊外の境界にたてられた標石ではないかと歴史研究者は推測しています(奥富敬之『鎌倉史跡辞典』新人物往来社 1997)。いずれにしても、中世の段階でも本来の意味が不明になっていたところを勧進の山伏か僧に目をつけられて勧進唱導のネタにされたのだと思います。

2021年9月21日 (火)

79ページの写真「子易明神の社叢と大山」

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『新編相模国風土記稿』にはここ子易明神の境内図も描かれているので、これも、陸軍文庫本・内閣文庫本・刊行本それぞれの挿絵を比較したら違いがわかって面白いだろうなあ、と思いましたが、如何せん、上糟屋村が掲載されている巻之四十四(大住郡巻之三)の原本(陸軍文庫本)は前回ご説明した事情から入手しておりません。

伊勢原市の市史編纂でも内閣文庫本が一番正確なはずという誤った信念から内閣文庫本がそのまま使われたのが残念。ここは市民の税金を有効に活用するために陸軍文庫本の複写紹介に舵を切って頂きたいと思いますが、自分は伊勢原市民ではないのでそれ以上は申し上げられません。

大山山頂へ真っ直ぐ伸びる参道と拝殿は、ここが古代中世の大山遥拝の社から始まっているに違いないという感覚的確信を呼び起こします。境内には、江戸時代にもご神木とされていたケヤキ(欅)の他にも、伊勢原市の保存樹木になっている見事なナギ(梛木)の木もあって、熊野信仰の影響と思いますがお守りに葉っぱも入れていらっしゃるそうです。

個人的には、一番奥に生えているカゴノキ(鹿子の木)も見事だと思います。
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2021年9月19日 (日)

77ページの絵「大山の良弁堂に祭られている良弁を助ける猿の像」

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今回は、せっかくなので、『新編相模国風土記稿』の江戸幕府地誌調所旧蔵本と写本3種類の絵を比べてみます。

注目点は
・猿のおでこの一番上のしわ・・・内閣文庫本は額の上部の線とくっ付いています。
・良弁の左手の袖・・・陸軍文庫本には描かれず、内閣文庫本ではしっかり描かれ、刊行本2種類ではほんのちょっと描きます。
・猿の右膝裏のしわ・・・内閣文庫本にだけしわがありません。
・猿の左膝裏のしわ・・・刊行本2種類にだけちょっと線が見えます。

大日本地誌体系本の底本は鳥跡蟹行社・谷野遠本なので、この絵に限らず刊行本2種は細部にわたってよく似ています。そして、この刊行本と内閣文庫本は本文も絵・図像も筆写間違いの箇所がほとんど一致しないので、明治の初期、それぞれ別に筆写作業が行われたことがわかります。

なお、この大山についての記述がある大住郡巻之十の陸軍文庫本は一部ページの順番がぐちゃぐちゃになっていました。明治時代の筆写作業で綴じ込みをばらしてまた綴じ直す時にやらかしたんだろうと思います。

※ 研究者の方は拙稿「相模の一山寺院と『新編相模国風土記稿』地誌調書上-大山寺と光勝寺-」(『山岳修験』第65号、日本山岳修験学会 2020)をご参照ください。

いずれにしても、『新編相模国風土記稿』の原本と断定できる陸軍文庫本は国立国会図書館の古典籍資料室に行かなければ閲覧できません。しかも複写を入手するのに、見開き一枚につき、撮影130円+入紙13円+フィルム伸ばし70円、計213円。大住郡だけ入手するのにも20万円ぐらい?これは行政府が文化行政としてやるべき仕事でしょう?

現在、多額の予算を使って編纂された神奈川県内の各自治体史資料編に掲載されているのはすべて内閣文庫本か刊行本、そのまま載せているか活字化しているか、いずれにしても税金の使い方としてはもったいなかった。これから自治体史を編纂する自治体が江戸幕府地誌調所旧蔵本(陸軍文庫本)を住民の皆様のために活用して下さることを祈るばかり。

2021年9月13日 (月)

75ページの写真「清瀧寺あと」

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ここ清瀧寺の「文政丙戌年」(文政9年、1826)「三月」の「地誌御用 御調書上帳」の書きかけの下書きのような控が愛川町郷土資料館に現存しています。内容は3ページほどで虫食いがかなりあって読めない所がたくさんあります。『新編相模国風土記稿』を編纂していた江戸幕府地誌調所から提出を命じられて作成したものです。

記載者は「相州愛甲郡毛利庄半原村 〇〇山真言宗 今大山不動院清瀧寺 相州鎌倉郡手廣青連寺末」(〇は虫食い)。そして「寛政十一未年(1799)九月十二日〇〇〇自火ニ而本堂並古書物木(?)不残焼失仕候」とあります。従って過去の記録が失われているのが残念です。『今大山縁起』のテキストだけでも残されていて良かったです。

最初に『今大山縁起』を読んだ時に、まさにデジャブで、この聖地表現はどこかで読んだような、いや、そんはずはない、という不思議な感覚でしたが、実はそれが『大山縁起』(大山寺縁起)真名本のテキストだったことに後で気付きます。江戸時代の『新編相模国風土記稿』で大山の山中の描写(つまり伊勢原市内)として書かれていたことが、実は愛川町の塩川滝の周りじゃん!と気付いたのはその何か月後の事でした。

なお、この清瀧寺不動堂の二十分一地割絵図面が残されていて、鈴木光雄『幕府作事方柏木・矢内匠家 半原宮大工矢内匠歴譜』(神奈川新聞社営業出版部、2009)に掲載されています、寛政期に焼失した後の再建時のものと思われます。

その後、明治時代になって廃寺となったわけですが、最後の住職は還俗して神職となりとんでもない犯罪をやらかしたことは知る人ぞ知る事件。かつては『観光神奈川見聞記』(神奈川県、1958)にまで書いてあった事件。先ほどの本でも紹介されています。ここでは触れないことにします。

2021年9月 7日 (火)

『多摩のあゆみ』183号

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『多摩のあゆみ』183号(2021年8/31発行)で拙著『丹沢・大山・相模の村里 と 山伏 ~歴史資料を読みとく』をご紹介頂きました。書評を書いて下さったのは厚木市あつぎ郷土博物館のもと館長大野先生。
機会がありましたらお読み下さいませ。

https://www.tamashin.or.jp

75ページの写真「仏果山から拝む大山」

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山岳信仰の昔の姿を探る時に、里から見た山の景観が重要な要素なのは常識です。なので、相模大山の姿はどこから眺めるのが見事だろうと、常に意識して歩いていますが、やはり一番は有無を言わさず平塚市(※16ページの写真「平塚市北部から見た丹沢山地と大山」参照)。ピラミダルな姿と丹沢山地がほとんど見えない所がポイントです。相模川を渡った東側や、相模川をさかのぼった北側へ行くと、大山北尾根が見え始め形が崩れてきます。そして東側では富士山の姿も視界に入りやすくなって大山の存在感がちょっと薄れてきます。

この仏果山から見た大山も、なかなか見事だと思います。右側に標高の高い丹沢山地の山々も見えますが、存在感ではそれほど負けていません。そして大山北尾根や三峰山は手前に伸びているので、大山がここでもピラミダルな姿で拝めます。半原で仏果山が「大山の背面鎮護」、「正身の不動明王」が現れる「明王嶽」とされたのも景観的に納得できます。

2021年9月 3日 (金)

73ページの写真「江戸時代の大山道の道しるべと不動明王像」

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大山道の道しるべは南関東各所に現存していますが、総高224㍍のこれはその中でも指折りの立派な道標で、煤ヶ谷の飯塚利行先生(清川村文化財保護委員)曰く「保存状態や彫りの深さから現存するものとしては一番である」という見立てもまさにその通りと納得できます。

不動明王を本尊とする大山を目指していた道しるべには不動明王像が載っていることが珍しくないわけですが、そのお姿は大山寺本尊の瑟々座に座る大師様という様式を必ずしもコピーせずにそれぞれ自由に造形されているような気がいたします。どなたか不動明王像だけチェックしてまとめてみてくれたら良いのに(と勝手なお願い)。このお不動さんは台座が存在感十分の岩座、頭髪は大山寺ご本尊の弁髪系ではなく十九観パンチパーマ系に見えます。そして宝剣がやたら太い、身体も指も眉も鼻も太い。何とも言えない土着的な魅力を醸し出しています。最近は赤いお帽子をかぶっていらっしゃるのが微笑ましいです。

なお、この石造物は単なる大山道道標というだけでなく、建立者の残した巡礼記録文書も含めて18世紀日本の複合的文化情報(巡礼者の諸相・出稼ぎ石工の存在など)を現代に伝えていて大変興味深いものでもあります。詳細は『清川村史』(2017)を参照して頂くか、相模国霊場研究会に参加してもらって飯塚先生に聞くと色々と教えてもらえるはずです。

この石碑の碑文
※見えないところは飯塚利行「杉山八郎左衛門重国六十六部廻国成就供養塔と大山道道標」(相模国霊場研究会発表レジュメ 2020 11/2)と『清川村の野立ちの石像群』(清川村 1976)から引用。
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(正面)
みぎ 大山道

(右面)
天下泰平國々修行船河道橋宿々等
大乗妙典六十六部日本廻国大願成就供養塔
國家安全 大小志施主現当二世安楽菩提也

(左面)
于時明和元甲申稔(1768)九月吉辰
                誓 運
   當所大野村杦山氏産
           俗名八郎重国

(裏面)
信州高遠城下大石庄蔵彫之

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