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2021年5月12日 (水)

42ページの写真「聖護院」

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初めて聖護院のこの門をくぐったのは2003年の事です。この年の3月に神奈川県を退職し、退任式は辞退して青春18切符を買って鈍行を乗り継いで京都へ向かいました。

最後の勤務校は1年間だけでしたが、優秀な生徒が多く皆自分たちの力で未来を切り開けそうに思いました。しかも校長には自分の専門科目を勘違いされていたことが判明していて腹が立っていました。ちょうど神奈川県は教職員削減のために3年間限定で早期退職の年齢引き下げと退職金上乗せを提示していました。すぐ希望を出しました。

そして、4月3日の夜、遠方から集まった山伏衆とともに聖護院の二階の大部屋に宿泊。翌日からの葛城修行に備えるためです。初めての山伏修行の始まりでした。

本書にも書いたように、丹沢山地を修行の場としていた山伏衆の活動は政府の命令「修験宗廃止令」(明治5年/1872)で禁止され、全員が転職してしまいました。それまではその山伏衆の院坊(修験寺)はすべて聖護院を本山と仰ぐ末寺でした。

その山伏衆の記録の多くは処分されましたが、幸い多少は残っています。しかし、神職や農家や勤め人となった子孫の方にはもうよくわからない記録です。文字記録だけで過去を研究しても、こりゃあ無理だと思いました。

関西でも、山伏の文化が途絶えてしまったところもありますが、いったん禁止された山伏衆の活動が、紀伊半島を中心に地域の信仰に支えられて明治時代の早い時期から復活しました。記録も修行者の経験もかなりの部分が受け継がれました。だからこそ、丹沢山地で行われていた山伏修行を知るためには、聖護院の門をくぐらねばならなかったのです。

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