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2021年5月

2021年5月27日 (木)

46ページの写真「日向薬師の神木のぼり」

P46_shiginobori

小沢幹「「日向山霊山寺」(通称日向薬師)の諸史料について」『伊勢原の歴史』第6号(伊勢原市、1991)には以下のように記されています。
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日向薬師関係の史料については明治27年(1894)の庫裏の火災により古文書等多数を焼失したので研究上多くの支障があり残念である。
   ---(中略)---
「神木(しぎ)登り」の行事については昭和49年(1974)4月15日の大祭時に約百年ぶりに復活されたが、時代により多少異なった部面もあるが、日向山修験の行事としては重要と思われる。地元の日向では「しげ立て」と称してきた。
   ---(中略)---
「神木立て」(しぎたて)がなまって「しげたて」と呼ばれたのである。明治30年代までは4月14日、15日の2日間の例祭で、14日が白鬚神社の例祭で15日が日向薬師の競馬が挙行されていた。
   ---(中略)---
この神木登りの行は八菅山や箱根山(現在の箱根神社)でも行われていたものである。この「しげ立て」について、県文化財専門委員だった永田衡吉氏が「神奈川文化財」の第4号で、「宝城坊の推登(すいとう)」として掲載された。永田氏は「江戸名所図会」の葛飾八幡の条(揺光之部巻之七)に「・・・(※ 別途、以下に全文を掲載しました)・・・」をあげられた。「江戸名所図会」では推登とあるが、実際の行では椎の生木を伐り出して用いているので椎登と思われる。
   ---(中略)---
日向山の「しげ立て」行事も明治維新の神仏分離により廃絶した。最後の「しげ立て」で椎に登った人は、日向薬師の八大坊の一つで能光坊の当主だった能條勘治氏である。勘治氏は大正13年(1924)10月24日他界された。
   ---(中略)---
明治維新の神仏分離に当り、明治3年(1870)百姓に還俗し、日向修験の茶湯寺的性格を持っていた日向の一ノ沢浄発願寺(天台宗弾誓派本山、上野の寛永寺の凌雲院末)の檀徒となっている。
   ---(中略)---
日向薬師の「しげ立て」とよく似た修験道行事は、熱海市の伊豆山権現、千葉県の野田市、下総の馬場町、東京都(ママ、千葉県市川市)の葛飾八幡宮、愛甲郡愛川町八菅山にもあった。なお、山梨県勝沼町の大善寺の藤切り行事もよく似ている。ここでは現在も行われていて有名である。
   ---(中略)---
この「しげ立て」の行事が明治維新に消滅した後に日向薬師の競馬がはじまったという。

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この行事の復活から現在に至るまで、この筆者である小沢先生をはじめ当事者の皆様の相当のご努力とご苦労があったものと推察いたします。なにしろ、明治期の火災による焼失のためか、この儀式についての古文書は日向山内では全く見つかっていないそうです。大変な行事だとは思いますが、今後もぜひ受け継いでいって頂きたいと願います。

さて、現在の調査研究成果の地平から見るとここで似た行事として紹介されているものは整理して分類する必要があります。

小沢先生も注目された、日向薬師の神木登りが記録されている唯一の同時代文字史料、天保7年(1836)に刊行された『江戸名所図会』巻七 揺光之部「葛飾八幡宮」の日向薬師が出てくる説明文は以下の「放生会」です。江戸名所図会は読み仮名がふってあるので、それもカッコに表して今まで意識されていなかったこの行事の呼び名に注意すべきかと思います。
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放生会
八月十五日に修行す。此の日神輿渡らせらる。また同日、津宮(つく)といふことあり。
夕七時(とき)頃当社の社人ら集まり華表(とりゐ)の前に檣(ほばしら)の如く長き柱に白布(しらぬの)を巻きたるを建て、上の方にてその白布を結び合はせて足をかくる代(しろ)とす。念願ある人身軽になり件(くだん)の楹(はしら)の上へ登り四方を拝し社(やしろ)の方を拝し終はりて下る。此の行事は相州日向薬師にもありてかしこにては推登(すゐとう)といへり。其の趣相似たり。又其の津宮柱(つくばしら)の下に楽屋(らくや)をまうけ神輿帰社におよぶ時、獅子(しし)猿(さる)大鳥(おおとり)の形を粧ひて此の楽屋より出でて笛太鼓に合はせて舞ふことあり。同十四日より十八日迠(まで)の間、生姜の市あり。ゆゑに土俗、生姜祭(しょうがまち)と唱ふ。マチは祭りの縮語なり。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563399/31

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この葛飾八幡宮(千葉県市川市)放生会の津宮柱(つくばしら)が日向薬師の推登(すゐとう)と趣が似ているという記事です。しかし、これは柱を立てて人が登り祈願するところが似ているだけで、南関東周辺の山伏の儀礼とつなげて語るのは今となっては無理があります。むしろ「つく」と呼んでいるので、野田の津久舞(千葉県野田市)、多古のしいかご舞(千葉県多古町)や龍ケ崎の撞舞(茨城県竜ケ崎市)など、下総国周辺で行われる祭礼と同じルーツを持つものだと思います。「下総の馬場町」は何を指しているのかわかりませんでした。

日向山霊山寺の「しげ立て」は山伏の入峰儀礼の中の儀式として考えなければその意味が見えてこないことは言うまでもありません。ただ、史料が全く失われている中で、遠い地域に文字記録として残されていたのはとても面白いと思います。

それと、明治以降の祭礼日である4/15・4/16という日程に江戸時代の神木登りが行われていたかどうかは大いに疑問があります。なぜならば、日向の山伏にとって霊山寺内で最も重要な神格と神社は明治以降は廃絶してしまった「七所権現」で、その「天下安全御祈祷修行」が「3月15日」であったことを記す旧院坊の古文書があります。ただ、これはまだ公開されていないので、またいずれ別の機会に論じたいと思います。そして、日向山伏の峰入り修行で山岳抖擻(とそう)に入るのは3月25日でした。

なお、上記の「「日向山霊山寺」(通称日向薬師)の諸史料について」『伊勢者の歴史』第6号(伊勢原市、1991)の内容は神奈川県教育委員会『中地区民俗調査報告書』(1973)の詳細な報告を整理した内容となっています。こちらも小沢先生のお仕事でしょう。そしてこの復活した神木登り表白文も最後に「神木先達小沢幹」とあります。

当時の神奈川新聞の記事↓
Shiginobori19740415news

2021年5月20日 (木)

44ページの写真「平安時代の資料にも記されている大峰第三十八行所の深仙宿」

P44_jinzen

12世紀末の源平合戦の頃にその原型が編まれたと言われている西行の私歌集『山家集』(さんかしゅう)にも、ここ深仙(じんぜん、しんせん)で詠まれた歌が3首あります。西行も大峰修行を経験した山伏でもありました。
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大みね(大峰)のしむせん(深仙)と申所にて、月をみてよみける

ふかき山に すみける月を見ざりせば 思出もなき 我身ならまし
(西澤先生の解釈:大峯山中、深仙の宿で澄んだ月を見る。聖域の中でも最も深遠な神秘の地で、この神聖な光に触れることがなかったら、私にはこの世の思い出など何もないと言っていいくらいだ。※ 西澤美仁『西行 魂の旅路』角川ソフィア文庫 2010)

みねのうへも おなし月こそてらすらめ 所からなる あはれなるへし

月すめは たににそくもはしつむめる みね吹きはらふ 風にしかれて

※日文研和歌データベース『山家集』01104-01106
https://lapis.nichibun.ac.jp/waka/waka_i133.html

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この西行『山家集』の大峰修行中の歌を題材に、西行の入峰修行ルートと聖域としての大峰を地理学的に分析した素晴らしい論考があります。駒沢大学教授 小田匡保先生「「山家集」に見る山岳聖域大峰の構造」『史林』第70巻第3号(1987)。まだ京都大学にいらした頃に書かれた論文だと思いますが、この論文にはその分析の鮮やかさにかつて感動いたしました。学術論文で感動するというのもなかなかないことです。初対面の時には、その旨をお伝えした記憶があります。因みにこの論文は京都大学学術情報リポジトリで公開されていますのでご興味のある方はぜひお読み下さい。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/238923

さて、現代の大峰修行では、この深仙宿(約1500m)の後、いくつかの行所を経て前鬼(約800m、同じく奈良県下北山村)へ下ります。役行者に従っていた鬼の夫婦 前鬼・後鬼の子孫と伝承されてきた五軒の方々(各家とも苗字に鬼が付きます)が暮らしてきた宿坊集落です。現在は小仲坊一軒だけになりました。ここではお風呂に入ることが出来ます。そしてヤマビルも一杯でした。風呂場でも目撃しました。

2021年5月15日 (土)

44ページの写真「空鉢嶽 尾高宿」の跡地

P44_odakasyuku

かつては、厚木市の弁天の森キャンプ場をベースにしたハイキングコースがこの尾根の中に整備されていて、この宿跡は「すり鉢広場」と命名されて近くに四阿が出来たり、「見晴広場A」とか「見晴広場B」とか「ひょうたん広場」とか、案内板と山道の整備が厚木市によって進められていた時代もありました。

が、今や、キャンプ場も廃止されて、この尾根周辺の登山道もかなり荒廃してしまったのではないでしょうか。バリエーリョンルート山歩きマニアの皆様に特化した山域になりつつあるような気がいたします。

昔は子供たちを連れて歩いたりもした尾根だったので、気楽に考えてこの写真を撮りに行った時には、不動尻へ下る巨木の森コースは消滅していたり他にも相当荒れていてちょっと焦りました。

『タウンニュース』のこんな記事↓を見つけました。
https://www.townnews.co.jp/0404/2012/07/06/150488.html

もしや、このエリアのキャンプ場利用客が減ってしまったかなりの原因はあの生き物ではないかしらん?と思いますが、いかが?

2021年5月12日 (水)

42ページの写真「聖護院」

P42_syogoin

初めて聖護院のこの門をくぐったのは2003年の事です。この年の3月に神奈川県を退職し、退任式は辞退して青春18切符を買って鈍行を乗り継いで京都へ向かいました。

最後の勤務校は1年間だけでしたが、優秀な生徒が多く皆自分たちの力で未来を切り開けそうに思いました。しかも校長には自分の専門科目を勘違いされていたことが判明していて腹が立っていました。ちょうど神奈川県は教職員削減のために3年間限定で早期退職の年齢引き下げと退職金上乗せを提示していました。すぐ希望を出しました。

そして、4月3日の夜、遠方から集まった山伏衆とともに聖護院の二階の大部屋に宿泊。翌日からの葛城修行に備えるためです。初めての山伏修行の始まりでした。

本書にも書いたように、丹沢山地を修行の場としていた山伏衆の活動は政府の命令「修験宗廃止令」(明治5年/1872)で禁止され、全員が転職してしまいました。それまではその山伏衆の院坊(修験寺)はすべて聖護院を本山と仰ぐ末寺でした。

その山伏衆の記録の多くは処分されましたが、幸い多少は残っています。しかし、神職や農家や勤め人となった子孫の方にはもうよくわからない記録です。文字記録だけで過去を研究しても、こりゃあ無理だと思いました。

関西でも、山伏の文化が途絶えてしまったところもありますが、いったん禁止された山伏衆の活動が、紀伊半島を中心に地域の信仰に支えられて明治時代の早い時期から復活しました。記録も修行者の経験もかなりの部分が受け継がれました。だからこそ、丹沢山地で行われていた山伏修行を知るためには、聖護院の門をくぐらねばならなかったのです。

2021年5月 9日 (日)

第4回 相模国霊場研究会のお知らせ

神奈川県の旧相模国を対象にした学際的な研究会「相模国霊場研究会」の第4回研究会のお知らせです。宗教学・歴史学・民俗学・文化人類学・考古学・地理学・文学・建築学・生物学といった学問分野を越えて広くご参加者を募っております。5/9現在、残枠8名です。
http://banshowboh.world.coocan.jp/sagami_study/

【日時】2021年(令和3年)6月7日(月)
 15時開場/受付開始15時20分/閉会18時30分

【場所】相模原市立 市民・大学交流センターユニコムプラザさがみはら
(小田急線相模大野駅 徒歩2分)
 ミーティングルーム4(定員30名のところ、現在は15名)

【会費】600円(場所代+資料代)

【研究発表】
1) 城川隆生(もと県立高校教諭)「『相州大住郡日向薬師縁起』仮名交り文縁起について」
2) 遠藤孝徳(山北町地方史研究会)「延喜式内社寒田神社の研究から」

2021年5月 2日 (日)

41ページの写真「大峰と葛城」

P41_kii_peninsula

日本の歴史の中の「大峰」とは、現代の国土地理院地形図に掲載されている地名「大峰山脈」として、現代でもほぼ同じ空間がイメージされると思います。それに今でも山伏の修行は大峰山脈の全域で盛んです。

しかし、「葛城」は、現代の地形図では「和泉山脈」と「金剛山地」に分けられていて、しかもその中に「和泉葛城山」(大阪府岸和田市・貝塚市/和歌山県紀の川市)も「金剛山・葛木神社」・「葛城山」(奈良県御所市/大阪府南河内郡千早赤阪村)もあって、さらに「かつらぎ町」(和歌山県)という自治体もあります。その上、大都市圏に近いため、この山脈のあちらこちらが主要幹線道路で分断されています。山伏修行がいまでも盛んなエリアもありますが、自然の森の中を歩き通すことはもはや不可能。南関東の方に歴史的な「葛城」の話をしても、どうも受け取っている葛城の地理イメージが違うなと思ったこと度々。

南関東の人間には歴史的な「葛城」が意味する空間がわかりにくいのだと実感したので、こんな地図を作った次第。

そして、私は紀伊半島とはつくづく深い縁があると実感しています。☆印は、筆者の出生地。母親の実家の畳の上でお産婆さんに取り上げられました。三重県多気郡宮川村(今は大台町)滝谷。お伊勢さんの上流の山奥の生まれです。

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