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2021年4月13日 (火)

35ページの写真「『峯中記略控』の発見を報じる神奈川新聞」

P35_kanagawashinbun

1963年に日向山霊山寺の旧院坊で発見された山伏の峰入り記録について、当時、神奈川新聞はこのように大きく報じました。他に、朝日新聞なども大きく報じたようです。後に伊勢原市の教育長をお務めになる小沢先生が発見者として紹介されています。小沢先生宅も霊山寺の旧院坊です。

実は、この発見の報道に至るまでのエピソード(裏話?)が、やはりその年に公開されています。長くなりますが、ちょっと面白いので引用いたします。

根本行道「日向山伏の丹沢縦走」『あしなか』第84輯 山村民俗の会(1963)
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 ・・・(前略)・・・、今年の一月十八日の朝日新聞神奈川版に、突如として「山伏たちがコースを開く、山王中の小沢教諭丹沢の古い資料を発見」と題し、四段抜きのトップ記事があらわれ、世の丹沢研究者をおどろかせたのである。

 それは、日向薬師の承仕の家柄だった常蓮坊の子孫の家から、日向山伏の峰入の記録が発見されたことを伝えるもので、発見者の小沢幹先生の話として、「県下ではじめての資料と思われる。文化財保護委員会に報告して、丹沢の歴史を知る基礎資料として、さらに調査していきたい」と報じ。また同日の神奈川新聞には、「見つかった峯中記は口伝されたものを江戸時代になって略記したものだが、丹沢大山が千二三百年(前)から山伏によって開拓されたことは明らかで、地名の起源もすべてこれに関係があり、この種の資料の見つかったのはまったくはじめて」と語っている。出づるべき物がついに現われたのである。

 ところで、秘録発見の記事を見て丹沢に関心をもつ者として大変うれしく感じ有難く思ったのは事実だが。それと同時に、小沢先生は発表者で、発見者は別にあるのではなかろうか、という妙な疑念が湧いた。と同時に胸にうかんだのは、奥相模一帯を精通している若い友人の千葉政晴君の姿である。

 彼は厚木の奥、中津川の八菅修験の末孫で、仕事の余暇をみては先祖の足跡をさがして歩いている修験研究者である。本誌七十七輯の大山特輯に「八菅の行所」を書いた男といえば、記憶される人もあろう。

 前記の新聞記事が出てから間もなく、千葉君から電話がかかってきて、例の記録を写したから送るというのである。そこで、あれは君が発見したのではないかと問うと「わかりましたか」という返事だった。

 千葉君の発見の動機というのはこうだ。一月十三日に日向薬師の山伏の子孫たちの新年会が坊中(日向部落)のダンカ寺であり茶湯寺である一ノ沢の浄発願寺(日向川上流)で催された。千葉君は八菅山伏の一族であるが、招待されて日頃のうんちくを一席ぶたされることになり、修験の話を講演した。すると常蓮坊の常盤木トクさんが、自宅に先達の古い書きものがあると教えてくれた。会が終ってトクさんの家で見せて貰ったのが、「峯中記略控」という、タテ十七センチ、ヨコ十三センチの和紙をヨリで綴じた十二頁の文書であった。どうもよく読めない、で、同じ坊中の大泉坊の小沢先生を呼んできて、写しをつくってもらうことになった。これが新聞に小沢先生の名で発表される機縁であるということだった。・・・(後略)・・・
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小沢先生、根本先生、千葉先生、とお会いしたことはありませんが、お名前だけは今までにも何度か聞いたことのある丹沢の山岳修験研究草創期の方々にまつわるエピソードでもあります。そして、今後も世代を超えて研究が継続されることが大事だと思います。後に続く研究者が必要です。

この史料の全文はコチラ↓です。
http://musictown2000.sub.jp/history/bucyuukiryakuhikae.htm

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