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2021年4月

2021年4月29日 (木)

40ページの写真「福島県喜多方市の新宮熊野神社の長床」

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2013年の夏季休業中にフィールドワーク&登山を目的に会津地方に行きました。震災から2年、東北(特に福島県)を応援しようという機運が世の中にあって、自分もそんな意識があったと記憶しています。→その時の日記ブログ。

長床と呼ばれる建築物は、明治時代初めの神仏分離・修験宗廃止令以降は山伏集団も消滅して神社の横長の特殊な拝殿としてのみ説明されることが多いと思いますが、各所の長床が山伏にとっての重要な儀式の場だったことがわかっています。この吹き抜けの建築様式を全国に広めたのも山伏集団と考えるべきだと思います。この長床を拠点にした「長床衆」と呼ばれる山伏集団は、熊野(和歌山県)に限らず、膨大な記録が残っている高野山「天野長床衆」(和歌山県かつらぎ町)、現在も山伏の活動が活発な児島五流「長床衆」(岡山県倉敷市)をはじめ全国にその痕跡があります。

長床で行われていた中世の山伏の修行の一端は、16世紀初めの山伏の教義書『三峰相承法則密記』(阿吸房即伝)にも記されています。
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第四長床次位階級事

正先達者不論度位可座先達柱也。度衆者可随度位。若為同度者可依年﨟為同度同年者可依初入修行遠近。若此三種為同位者可依䦰次第。新客者可随順年﨟。入新客可准度衆。真言修行新客亦同之。但於新客役者堅可勤之也。

国立国会図書館デジタルコレクション《『日本大蔵経』 第37巻 宗典部 修験道章疏 2》、または京都大学貴重資料デジタルアーカイブ《三峰相承法則 二巻》で閲覧可能です。

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長床内では着席順と座る位置は重要だったようです。まず「先達柱」が決まっていて「正先達」の任にある者は峰入り修行の回数によらず長床内の先達柱に座る。あとは、峰入りの回数にしたがって座る。もし峰入り回数が同じなら山伏になってからの年数(または年齢?)で決める。それも同じなら修行に入った時期が遠いか近いかで決める。それまで同じだったらくじで決める。「新客」は山伏になってからの年数(または年齢?)で決める。入場も(?)新客は「度衆」(峰入り修行経験者)に准じる。「真言修行」(真言を唱える修行?)の時も新客はまたこれと同じ。ただし、新客で役員の者はその役をしっかりやりなさい。
※新宮熊野神社の内部↓
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ところで、昨年、神奈川大学大学院で『長床の研究 ―その歴史的展開と祭祀空間―』という博士論文で博士号(歴史民俗資料学)を取得された方がいらっしゃるようです。ぜひ読ませて頂きたく昔の職場の先輩で神奈川大学教授白川先生になんとか読める機会はありませんかねえ?とお願いしている最中です。白井正子さんという方で現役の一級建築士でしかも90歳を超えていらっしゃるそうです!

2021年4月23日 (金)

青土社『現代思想2021年5月臨時増刊号総特集=陰陽道・修験道を考える』

2021年4月16日 (金)

36ページの鳥瞰図「日向山伏の行場」(青根上空3800mから)

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日向山霊山寺の山伏の修行については、拙著『丹沢の行者道を歩く』(白山書房 2005)で詳しくご紹介しています。この本は、後の調査研究の結果、明らかに間違いと判明している箇所が多々ありますが、『峯中記略控』に基づく日向山伏の修行コースについては現在も自分の推定考察結果は変わっておりません。

ただ、この拙著が、古書でとんでもない価格が付けられているようです。たぶん、全くご興味もないのに義理で購入されたり、こちらから献本で差し上げたまま本棚に眠っているお家もありそうな気がいたします。不要な方はどんどん手放して頂ければと願います。それに、神奈川県内のたいていの図書館には蔵書されているはずです。

これも、もちろん、カシミール(https://www.kashmir3d.com)と山旅倶楽部(http://www.yamatabi.net/main/index.html)のオンラインサービスを利用して、平面地図上に推定行所ポイントを記入し、鳥瞰図として立ち上げたものです。その作業に至る経緯については4ページの鳥瞰図で述べました。

2021年4月13日 (火)

35ページの写真「『峯中記略控』の発見を報じる神奈川新聞」

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1963年に日向山霊山寺の旧院坊で発見された山伏の峰入り記録について、当時、神奈川新聞はこのように大きく報じました。他に、朝日新聞なども大きく報じたようです。後に伊勢原市の教育長をお務めになる小沢先生が発見者として紹介されています。小沢先生宅も霊山寺の旧院坊です。

実は、この発見の報道に至るまでのエピソード(裏話?)が、やはりその年に公開されています。長くなりますが、ちょっと面白いので引用いたします。

根本行道「日向山伏の丹沢縦走」『あしなか』第84輯 山村民俗の会(1963)
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 ・・・(前略)・・・、今年の一月十八日の朝日新聞神奈川版に、突如として「山伏たちがコースを開く、山王中の小沢教諭丹沢の古い資料を発見」と題し、四段抜きのトップ記事があらわれ、世の丹沢研究者をおどろかせたのである。

 それは、日向薬師の承仕の家柄だった常蓮坊の子孫の家から、日向山伏の峰入の記録が発見されたことを伝えるもので、発見者の小沢幹先生の話として、「県下ではじめての資料と思われる。文化財保護委員会に報告して、丹沢の歴史を知る基礎資料として、さらに調査していきたい」と報じ。また同日の神奈川新聞には、「見つかった峯中記は口伝されたものを江戸時代になって略記したものだが、丹沢大山が千二三百年(前)から山伏によって開拓されたことは明らかで、地名の起源もすべてこれに関係があり、この種の資料の見つかったのはまったくはじめて」と語っている。出づるべき物がついに現われたのである。

 ところで、秘録発見の記事を見て丹沢に関心をもつ者として大変うれしく感じ有難く思ったのは事実だが。それと同時に、小沢先生は発表者で、発見者は別にあるのではなかろうか、という妙な疑念が湧いた。と同時に胸にうかんだのは、奥相模一帯を精通している若い友人の千葉政晴君の姿である。

 彼は厚木の奥、中津川の八菅修験の末孫で、仕事の余暇をみては先祖の足跡をさがして歩いている修験研究者である。本誌七十七輯の大山特輯に「八菅の行所」を書いた男といえば、記憶される人もあろう。

 前記の新聞記事が出てから間もなく、千葉君から電話がかかってきて、例の記録を写したから送るというのである。そこで、あれは君が発見したのではないかと問うと「わかりましたか」という返事だった。

 千葉君の発見の動機というのはこうだ。一月十三日に日向薬師の山伏の子孫たちの新年会が坊中(日向部落)のダンカ寺であり茶湯寺である一ノ沢の浄発願寺(日向川上流)で催された。千葉君は八菅山伏の一族であるが、招待されて日頃のうんちくを一席ぶたされることになり、修験の話を講演した。すると常蓮坊の常盤木トクさんが、自宅に先達の古い書きものがあると教えてくれた。会が終ってトクさんの家で見せて貰ったのが、「峯中記略控」という、タテ十七センチ、ヨコ十三センチの和紙をヨリで綴じた十二頁の文書であった。どうもよく読めない、で、同じ坊中の大泉坊の小沢先生を呼んできて、写しをつくってもらうことになった。これが新聞に小沢先生の名で発表される機縁であるということだった。・・・(後略)・・・
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小沢先生、根本先生、千葉先生、とお会いしたことはありませんが、お名前だけは今までにも何度か聞いたことのある丹沢の山岳修験研究草創期の方々にまつわるエピソードでもあります。そして、今後も世代を超えて研究が継続されることが大事だと思います。後に続く研究者が必要です。

この史料の全文はコチラ↓です。
http://musictown2000.sub.jp/history/bucyuukiryakuhikae.htm

2021年4月 5日 (月)

32ページの写真「鬼ヶ岩から蛭ヶ岳を望む」

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丹沢山地を縦走する方は一度はこの構図で撮影してみるのではないでしょうか。ただ、いつも晴れていて緑のある季節とは限らないので、こんな写真になることもあるのは皆様ご承知かと思います。

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鬼ヶ岩は、日向薬師の山伏たちにとっては「仙人ノ岩」でした(『峯中記略扣 常蓮坊』)。中世の大山寺の山伏にとっては「十羅刹塚」だったのではないかと推測しています(『大山縁起』真名本)。「鬼ヶ岩」という名称は江戸時代終わりごろからの俗人の登拝講による縦走修行が始まってから付けられたのではないかと推測しています。

人々の生活にかかわりが深い集落内や田畑・山林エリアの地名は、人々が共有して使用し後世までそのまま伝わることが多いと思いますが、人々の生活と縁の薄い高山エリアの地名は、古代以来広域の注目を集めてきた富士山や大山のような例を除けば、とりあえずかなりの部分がそれほど歴史はない、つまり古い地名ではないと疑っておいた方が無難です。

そもそも、山名でさえ、その山の東側(北側)の村と西側(南側)の村で違う名で呼んでいたことも珍しくありません。ましてや、山中のポイントの地名などは、歩く集団ごとに別の呼称となる可能性があり、時代の違いや立場の違いでその集団間に交流がない場合は、そのままバラバラだったはずです。

近代以降、世の中に地形図のような公的な地図が登場し、山名や地名を一つに決めて記入する際に相当の取捨選択や間違いまであったと考えるのが常識です。ですから、現代の地図を見て、こういう山名だから昔はきっと云々・・・と軽々しく論じることは出来ないのです。丹沢山地に関しては、登山ガイドブックなどの蘊蓄情報も一応まずは疑いましょう。

2021年4月 2日 (金)

31ページの写真「熊野本宮大斎原と大峰の山々」

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2003年9月に新客としてはじめて大峰奥駈を修行させて頂いた後、熊野那智で山伏の皆様に御礼とお別れのご挨拶をして、一人で熊野本宮に戻りました。川湯温泉の河鹿荘ユースホステル(現在は廃業)で修行の疲れを癒し、翌日から大斎原(おおゆのはら)を起点に熊野古道中辺路を歩きました。この写真は伏拝王子から。大斎原は明治22年(1889年)の洪水で熊野本宮が流されるまでの旧跡地です。

当時は、紀伊半島へ年二回の山伏修行と全国各地の修験霊山へのフィールドワーク調査を行いながら修士論文を書いていました。移動はJR青春18きっぷを多用、宿泊はほとんどユースホステル、40代にして貧乏学生調査旅行。

熊野古道中辺路はまだ世界遺産になる前だったので、現在ほどの賑わいもなく普通の山道と時々現れる山間の集落の舗装道路の繰り返しでした。修行中に同行だった東大大学院の井関君(たぶん今は気鋭の宗教学者)が一日で歩けますよ~というので、それを信じて軽く考えていたら40代の脚力ではその判断はちょっと甘かった。二泊取っておいて良かった。標高の高い大峰と違って暑かった。朝、本宮から歩き始めて、午後、バス停と車道のある近露王子あたりでビールと魚の美味しそうなお店を発見し一人打上げ。これがほんとに美味しかった。そのままバスでユースホステルに帰還。明朝はまた近露王子にバスで戻ってそこから歩き始め、口熊野(くちくまの)の田辺を目指しました。

山道ではほとんど人に出会わなかったので、中世・近世の石造物で特にお地蔵さんなどが鎮座しているとかなり不気味で背筋がゾクゾクしたこともありました。平安時代の熊野詣以来この900年ぐらいの間に果たしてどのくらいの人がここで行き倒れたのだろう?などと考え始めたら半端に歴史を知っているだけにもうダメでした。そういう時は覚えたての真言などを唱えながら必死で歩きました。

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