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2020年12月

2020年12月31日 (木)

3ページの写真「丹沢の山々と宮ケ瀬湖(相模原市緑区南山遊歩道からの展望)」

P3_tanzawa_toya_minamiyama

本書の34ページ「丹沢という地名」の内容を視覚的にわかって頂くためには、どこから丹沢山地を撮影したら良いだろう?と考えた末にここに撮影に行くことにしました。南山遊歩道の展望台は相模原市緑区青山地区になりますが、江戸時代は中津川の上流部分の山林を指していた「丹沢」という地名はここからの展望が一番わかりやすいだろうと考えたのです。

やはり、新型コロナ・ウイルスCovid-19感染拡大が始まって仕事もストップしてしまっていた4月14日、すでに桜も散った津久井の里を抜けて鳥屋に向かいました。かつての津久井郡津久井町鳥屋、そして青山です。鳥屋には、幼少のころ津久井町青根に住んでいた自分が高熱を出した時に、近くに医者がいなかったので鳥屋まで慌てて運ばれたことがあったそうです。

ちょうど前日は冷たい雨、山では積雪。丹沢の標高の高い峰々は雪山になっていました。里の新緑と雪山のコントラストがとても美しい絶妙のタイミングでした。

今は行政地名からは「津久井」が消えてしまいましたが、相模原市緑区の旧津久井郡の各所の住所地名になぜ歴史ある「津久井」を残さなかったのか、不思議でなりません。過去の文化はこんなことでも簡単に消えてしまいます。残念です。

『神奈川新聞』の連載「法螺貝の響く山」第9回「丹沢の名」(2015年1月10日)では下の写真を掲載してもらいました。中津川の奥の「丹沢」ということをわかって頂こうと思ったのですが、やっぱり今一つ分かりにくいと思い変えることにしました。
9_miyagaseko

2020年12月29日 (火)

3ページの写真「相模原市南区県立相模原公園からの丹沢の展望」

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県立相模原公園は相模原台地(相模野台地)の上段の縁にあって、そこから中段・下段の台地面といくつもの河岸段丘崖が相模川に向かって下っています。相模川が作り出した地形のヴァリエーションが面白いところでもあります。

この角度の丹沢山地の景色は、町田市からもさらに都心からも同じように見えます。そしてこの角度からも実はそう標高が高くない大山の形が見事に見えます。さらに東に距離が遠くなるほど丹沢山地の裏に隠れている富士山が顔を出し、それはそれで立派なのですが、「相模の村里」と銘打っている以上、やはり相模原からの展望にしておこうと思いました。

新型コロナ・ウイルスCovid-19感染拡大が始まって仕事もストップしてしまっていた4月6日の朝、空気が比較的澄んでいるタイミングを見計らって撮影いたしました。

自分は相模原市南部エリアの学校に計3校、結局17年間も勤務していたので、通勤・家庭訪問・出張・校外行事・フィールドワークなどを通じて色々と想い出もある河岸段丘エリアです。勤務中びっくりするような経験も数々しておりますが、高校教師時代に体験目撃したことの中にはこれは守秘義務があるなあと思われることも少なくないので、文章に書くことは控えます。

2020年12月24日 (木)

2ページの写真「秦野市渋沢丘陵震生湖近くからの丹沢の展望」

P2_tanzawa_omoteone

この写真を撮った渋沢丘陵周辺は子供の頃の一番の遊び場です。この景色は秦野育ちの人間にとってとてもなじみのある景色です。

この写真の撮影場所は秦野南地区のエリアになりますが、自分が育った秦野西地区には、当時、小学校は西小と上小の2つのみ(渋沢小も堀川小もまだありません)。中学校も西中だけで、渋沢中もまだありませんでした。西小学校も西中学校もとても広い学区でした。遠足では小学校でも中学校でも塔ノ岳へ登りました。友達との遊び場は、北は登山口の大倉、滝沢キャンプ場あたり、西は四十八瀬川、南は学区内の峠はもちろん大井町の高尾まで足を延ばしました。

四十八瀬川はまだ清流でカジカがたくさんいました。夏は水中眼鏡とシュノーケルを付けて捕まえて焚火で焼いて食べたりもしました。

峠には黄鉄鉱の鉱山跡があって白い粘土と黄鉄鉱を採りに行きました。峠のトンネルは電気もなく真っ暗で舗装されていなかったので凸凹でした。黄鉄鉱は子供にとって「金(ゴールド)」の意味がありました。ところが、帰りに自転車をこいでいるとトンネルの中で「金」をたくさん入れた袋がいつの間にか破れて出口でがっかりというような事件もありました。

大井町の高尾にはハヤ(ウグイ)の群れがたくさん目視できる谷間の清流がありました。ここは秘密のスポットで、誰でも10匹以上釣れるような場所でした。初夏の頃、帰りに山道沿いの木苺(モミジイチゴ)をみんなで争うように食べながら歩きました。もちろん今は堰堤工事や護岸工事でそのスポットは消滅しています。

秋の震生湖にはサツマイモを大量に買い込んでアルミホイルとマッチを持ってみんなで出かけました。湖畔で焚火を起こしてその中にアルミホイルに包んだサツマイモを入れて、焼きあがるまではみんなで「缶蹴り」。焼きたての焼き芋は別格の美味しさだった記憶があります。小学校高学年の頃には父親に表尾根や丹沢縦走に連れていかれていたので、この写真の場所からのだいたいの山名は認識していましたが、「同角ノ頭」はつい最近までわかっていませんでした。

2020年12月16日 (水)

2ページの写真「夕暮れの蛭ヶ岳山頂から富士を望む」

一昨年まで、数年間、8月のお盆休みに、写真を撮り貯めるために丹沢の縦走に行っていました。そのうちまとめようと考えていた本に載せる材料を集めておきたかったのです。良い写真を撮るには、秋~冬の方が好条件に決まっていますが、何しろ、ゆっくりと泊りで縦走する時間を他の時期に持っていません。普段は基本的に貧乏暇なしで色んな意味で余裕がありません。それに丹沢の山小屋が一番空いている時です。

当然、雨や霧に見舞われ、写真撮影にはお話にならない事が多かったです。

それでも、新しいカメラを買った直後に焼山方面から登った2018年は、蛭ヶ岳山頂で西丹沢の山々から流れ落ちる雄大な滝雲を撮影。考えてみれば、動画を撮っておけば良かったのに、まだ新しいカメラの使い方がよくわからず写真のみ。そこでその時の写真を使ってスライド動画を作成してみました。

この時、縦走してみたいと付いてきた若手歌姫も、その時は蛭ヶ岳山頂で「恋愛なんてめんどくさいじゃないですか~」と言っていたのに、その翌年にはしっかり恋愛結婚して無事にお母さんになりました。めでたしめでたし。時々、子供を連れてきて「町田のじいじいだよ~」と紹介してくれます。
※その歌姫がご結婚直後に私が昔作曲した「祝い歌」という曲を夫婦で演奏してくれた時の様子
 ↓
https://www.youtube.com/watch?v=vdVZNB7Uc-Q&list=PLUvhYdHqiB5oXUS3THhNGMssb8jgkPvDK&index=11

2020年12月14日 (月)

1ページの写真『御行列』(宝暦7年)の八菅山伏

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表紙の写真その5でもご紹介した『御行列』に描かれている八菅山伏。江戸時代に京都の人々が目撃した豪華な山伏パレードの様子を図録として出版したものだと思います。

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・・・(前略)・・・
〇役山伏(八人)   〇役山伏(八人)
〇八菅山(山伏五人) 〇八菅山(山伏五人)
貝          貝
同          同
〇御笈        〇御笈
同          同
〇御閼伽桶(二人)
〇御持貝(二人)   〇御持貝(二人)
  〇同(二人)
・・・(後略)・・・
-----------------------------------------
・・・(前略)・・・
【相州八菅山】
  宝喜院
  重仙院
  覚蔵院
  覚養院
  圓宥院
  山本院
  吉野院
 右之外坊中有之略ス
・・・(後略)・・・
-----------------------------------------
・・・(前略)・・・
役山伏衆

八菅山衆
・・・(後略)・・・
-----------------------------------------

宝暦7年(1757)に京都で出版されたこの『御行列』。この版元(今で言う出版社)がどこでどのように情報を取材したのかはわかりませんが(やはり聖護院からかしらん?)、聖護院門跡増賞(ぞうしょう)親王(桜町天皇の猶子)の大峰入峰修行に供奉した全国山伏の中に、八菅山伏の行列内の位置と人数、そして八菅山から参加した10院坊のうち7人の山伏の名前が記され数人の八菅山伏が描かれているのは大変興味深いです。

このうち覚蔵院と吉野院は文政9年(1826)の『相州八菅山書上』ではすでに退転(廃絶)しています。

まだこの本の全文全画を分析した方はいないので、いつか時間が出来たら分析してみたいと思います。

2020年12月 4日 (金)

表紙の写真その13 『相州八菅山書上』の「霊寶并古書」

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「表紙の写真その2」↓でもご紹介した『相州八菅山書上』の中の「霊寶并古書」(霊宝ならびに古書)の部分です。
http://banshowboh.cocolog-nifty.com/book2020/2020/10/post-de4bfc.html

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霊寶并古書

一 御霊判  一画  神変大菩薩御持物三宝ニ御座候
一 御法鉢  一器  同断
《以上ここには写真なし》
一 御錫杖  一振  同断
一 神変大菩薩 画像一幅
一 左兵衛督源朝臣御加判勧進帳 壱巻 写別紙壱通
一 聖護院宮道増親王御染筆碑傳  一基 竪六尺余
                    巾一尺余 
  大峯葛城嶺先達熊野三山検校役君末葉八菅山順礼
 唵  天文廿一年 三月廿九日
  天台園城傳法智證正嫡聖護院准三宮道増 﨟三十八
                        年四十五
一 松田僧正碑伝    壱基 竪八尺程
            巾  一尺五寸余
  秋峯者松田僧正
  先達小野余流両山四国邉路斗藪余伽三蜜行人
    金剛佛子阿闍梨   長喜八度
  唵  正應四辛卯九月七日     以上三人
  小野瀧山千日籠熊野本宮長床衆竹重寺別當
    生年八十一法印権大僧都顯秀初度
一 海老名季貞守本尊正観世音 御丈七寸余
               銅佛
一 地蔵尊六躰   最明寺時頼公御寄附之由申伝候
一 六字名号板壱枚 当国高座郡當麻山之上人当山修行之時
          行所納札ニ御座候
一 十一面観音大士 七宿之内瀧本平地宿本尊飛龍権現本地仏
          行所宿退転ニ付当山江引取置申候
一 脇指壱振   當国津久井懸根古屋城主内藤左近将監殿奉納
         号百足(ムカデ)丸 作名 永和三年六月日備州長船義清
《以下ここには写真なし》
一 大般若経 壱部   元禄年中書写

一 額 一面  聖護院宮盈仁親王御染筆御本書共
        額縁凡長四尺余幅三尺余有之
  表 八菅山 草書ニ行  裏 文化六年三月十五日
    大権現          聖護院二品親王御書判書と有之
      以上○寶ニ御座候
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『相州八菅山書上』は文政9年(1826)に八菅山光勝寺が江戸幕府の地誌調所に提出したもので、この報告書をもとに『新編相模国風土記稿』が編纂されました。光勝寺は明治維新の時に廃寺になりました。替わって新しく出来たのが現在の八菅神社です。

現在も八菅神社宝物殿に収蔵されている霊宝の数々が書き上げられています。「神変大菩薩」(役行者)、「左兵衛督源朝臣」(足利持氏)、「道増親王」(実は親王ではなく関白太政大臣近衛尚通の子)、「松田僧正」、「長喜」、「顯秀」、「海老名季貞」、「最明寺時頼」(北条時頼)、「當麻山之上人」(当麻山無量光寺の上人)、「内藤左近将監(内藤綱秀?)」、「盈仁親王(閑院宮典仁親王の子、後桃園天皇の養子)」といった、八菅山に関係する歴史上人物の名前も出て来ます。史実と伝説が入り混じっているようにも思われますが、時衆の上人との関係などまだあまり知られていない歴史もありそうです。

さて、これにてやっと表紙に使った写真13枚が終了。次回からは本書の中の写真をご紹介いたします。

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