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2020年11月

2020年11月29日 (日)

表紙の写真その12『相州大住郡日向薬師縁起』後段の仮名交じり文縁起

Engi_hinata_kanamajiri1

江戸幕府の地誌『新編相模国風土記稿』の中で、日向薬師の縁起として取り上げられてたくさん引用されている縁起です。『相州大住郡日向薬師縁起』前段の最初には江戸幕府地誌調所の蔵書印が押してあります。

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相模国愛甲郡日向山霊山寺者
薬師如来應現の霊蹟行基菩薩
開闢の梵區なり四山屏のことくに
圍て禅室固く冷川常のことくに環て
観月證り除霞ハ山に輝く幡めく幕
ハ天に満て張り境ハ心に随て変す 
心垢るゝときハ境濁る心ハ境を遂て
移る境閑なるときハ心朗なり心境
…(後略)…
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この縁起は最近まで長らく見つかっていませんでした。原本は日向薬師の明治時代の火事で焼けてしまい、『新編相模国風土記稿』に引用されている箇所しかわからなかったのです。ところが、何のことはない、国立公文書館に、漢文で書かれた江戸時代の縁起のオマケのように後ろにくっ付いて所蔵されていました。『新編相模国風土記稿』を編纂していた江戸幕府の地誌調所のお役人がちゃんと写本を保管していたのです!

詳しくは、これについての論文を書きましたので、いつかきちんと発表したいと思います。本書では第6章(85~93ページ)でこの内容をご紹介しています。ただ、なぜ「大住郡」ではなく「愛甲郡」なのかは本書ではなく論文に書きましたのでしばらくお待ちを。

くずし字の読解には愛川町郷土資料館の山口研一先生と、伊勢原市文化財保護審議会委員 川島敏郎先生にも大変お世話になりました。

2020年11月20日 (金)

表紙の写真その11 日向山伏の碑伝

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幕末の文久2年(1862)に日向山伏が行った峰入り修行の帰途、煤ヶ谷八幡神社で行った採燈護摩祈祷の碑伝です。これもその6その7同様、やはり平成22年(2010)に神社に侵入した賊によって破棄されたため亡失。

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          文久二壬星    日向山大先達常蓮坊
カンマン(不動明王)奉修峯中採燈護摩供天下泰平國家安穏攸
          戌三月吉辰    権大僧都快泉法印同行九人
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日向山霊山寺は、現在の日向薬師本堂を中心に日向山山頂から現在のバス停「坊中」~「日向薬師」周辺の集落すべてを含む大きな寺院でした。つまり、日向の十二神将橋を渡ればすべてが霊山寺の境内です。日向山伏はその霊山寺内坊中に家族とともに暮らしていました。修験宗廃止令以降は全坊が還俗しました。「坊中」とはお寺の院坊の集まりという意味です。

日向山伏は大山・丹沢表尾根・丹沢主脈の峰入り修行を終えた後、蛭ヶ岳から青根に下り、青野原・鳥屋・煤ヶ谷・七沢の各村々で採燈護摩祈祷を行いながら日向まで帰ってきました。

日向山霊山寺と日向山伏については、21~26ページ、35~37ページ、85~93ページをお読み頂けるとありがたいです。なお、日向山伏の峰入り修行の詳しいことは『丹沢の行者道を歩く』(白山書房 2005)でご紹介しています。

2020年11月18日 (水)

本日の神奈川新聞

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ご紹介いただきました。

2020年11月17日 (火)

表紙の写真その10 八菅山伏の切紙

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八菅山光勝寺(現在の八菅神社+八菅山)の各院坊にはほぼ例外なく伝来していた切紙(修行テキストを筆写したノート)の一つです。これは文久3年(1863)のものです。

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・・・
(十六番)・・・
 心中諸願 如意満足

十七番釈迦嶽 心経一巻
 マクサマンダボダナン
 福寿増長 授軄利他

十八番阿弥陀嶽 心経一巻
 オンアミリタテイセイカラウン
 臨終正念 三尊来迎

十九番妙法嶽 心経一巻
 ・・・
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ここには八菅山伏の大山へ向かう峰入り修行(「国峰」)の各行所の勤行の次第が記されています。般若心経と各行所ご本尊への真言は欠かせません。清川村煤ヶ谷から登った大山三峰の山中での勤行の様子が少しわかります。「十九番妙法嶽」が三峰中央峰(935m)です。

因みに、釈迦如来のご真言は、真言宗では「ノウマクサマンダボダナンバク」、八菅山伏は天台宗寺門派系の本山派なのでこのように唱えていたはずです。

この史料は、各院坊ごとに『先達切紙』とか『切紙』とか『峰中三十番念誦私記』とか表題はバラバラですが、中身は同文です。ただ、先輩の山伏から教わりながら筆写する時に写し間違えたんだろうなあと思われる個所が所々に見つかります。例えば、右端の「心中諸願」は「心中所願」としている院坊が多いようです。

2020年11月15日 (日)

表紙の写真その9 煤ヶ谷八幡神社 明治3年の碑伝

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「神仏判然令」(本書では日本史教科書用語「神仏分離令」を使っていますが、厳密にはこう表記すべきと鈴木正崇慶應大学名誉教授にご指摘いただきました)と「修験宗廃止令」(本書では昔の『修験道辞典』の用語「修験道廃止令」を使っていますが、これも厳密にはこう表記すべきと同じく鈴木先生にご指摘いただきました)の狭間の時期に当たる明治3年(1870)の採燈護摩供板碑伝です。

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 今上皇帝 維時 明治三庚午年 當峯大先達 海合院/覺圓坊/光勝寺
カンマン(不動明王)奉修採燈護摩供國家鎮護祈攸
 寶祚萬歳  閏十月吉辰          結衆十有五人
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この碑伝については「第10章 神仏分離と『新編相模国風土記稿』」の138~139ページで詳しくご紹介しています。読んで頂けると光栄です。

ただし!正直に申し上げます。この碑伝の「寶祚萬歳」の2文字目に傷か汚れがあって、本書では「寶作萬歳」と読んで説明していました。「寶祚」とは天皇の位のことですが「寶作」と判断してしまい、豊作を祈願する表現とみなして書いています。

早くも、聖護院門跡のご門主 宮城泰年先生と上智大学の西岡芳文教授から、これは「寶祚」ではありませんか?という鋭いご指摘をもったいなくも頂戴いたしました。素直に納得いたしました!日本を代表する大研究者と大宗教者に直接ご教示して頂けることに感謝感激であります。という訳で、この場で以下修正させて頂きます。
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138ページ7行目:×「宝作(=豊作)万歳」→〇「宝祚(=明治天皇の位)万歳」
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2020年11月 5日 (木)

表紙の写真その8 『黒尊佛山方之事』

Kurosonbutsusan1

文化2年(1805)の丹沢山地主脈の縦走記録『黒尊佛山方之事』

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イタツテスコキ所アル也
先不動尊ノ座ス所左ノ
方ニクボミ有九重ノ紅葉ノ
大木有此下ニ長壹尺程ノ
不動尊護守ナサシメタモウ
也不動尊御迎タモウハ未申
方ヲ御迎タモウ也、時ニ年号
貞次(ママ)三年三月二八日也是
文化二年迄凡四百四十三年
也不動嶽ヨリ藥師
嶽迄道方壹里半不動
尊ヨリ壹町程参ト不動
坂ト申坂有是從モ何ン所
也右之通スヾ野モ有又草モ
ハケ或ハアラシモ二三ケ所モ
有リ此所トウルヘシイタツテ
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これは、「第8章 江戸時代の丹沢縦走記録」をぜひ読んで下さると幸甚です。この史料写真の箇所はちょうど114~115ページです。そして、この第8章を読みながら、大倉から塔ノ岳、そして丹沢山・蛭ヶ岳を縦走すると、きっとタイムスリップ出来ます。なんならタイミングが合えばお付き合いいたします。

原文の全文はコチラ↓です。
http://musictown2000.sub.jp/history/kurosonbutu.html

2020年11月 3日 (火)

第3回相模国霊場研究会のご報告

http://banshowboh.cocolog-nifty.com/blog/2020/11/post-17043e.html?fbclid=IwAR2jvwxnIKRmOOylG-K3J1oGrO--7c6U9bRz7JktlUNxdnp1RhA0WyXrhto

2020年11月 1日 (日)

表紙の写真その7 煤ケ谷八幡神社 八菅山伏の碑伝

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その6同様、やはり平成22年(2010)まで清川村煤ケ谷八幡神社に保管されていた八菅山伏の採燈護摩碑伝。神社に侵入した賊によって破棄されたため亡失。
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       天下泰平 寶暦十一 辛巳 年  八菅山
カンマン(不動明王)奉修練採燈大護摩供村内長栄祈所
      (※ 左側は割れて欠けている)
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【裏】   (※ 右側は割れて欠けている)
              當峯
                  大先達圓宥院
シリー(仏眼仏母)ボロン(一字金輪仏頂)
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これも清川村煤ケ谷八幡神社に保管されていた碑伝です(23ページ参照)。右端の行は肉眼ではなかなか読みにくいのですが、画像編集加工ソフトでコントラストを変えながら読むとこのように読めました。

江戸時代中期の宝暦11年(1761)の古い碑伝です。裏に「當峯大先達」とあるので、入峰修行中にここで「採燈大護摩供」が行われたのかと推測しますが、日付がわからないので、確証はありません。

この碑伝の変わっているところは「修練」という文言だと思います。『日本国語大辞典』では「修練」は「修養、鍛練すること。人格、技術、学問などを磨き、きたえること」としています。「天下泰平」や煤ヶ谷村の「村内長栄」を祈りながらも、やはり、採燈護摩の練習を兼ねていたのでしょうか?

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