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2020年10月

2020年10月19日 (月)

表紙の写真その6 年代不明の碑伝

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平成22年(2010)まで清川村煤ケ谷八幡神社に保管されていた峯中碑伝(ぶちゅうひで)。神社に侵入した賊によって破棄されたため亡失。
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    □□□□□□   □□(日向カ)山當先達大□□(泉院カ)
□(種字判読不能) 奉修峯中柴燈護摩供天下泰平国民安穏祈攸
     三月良辰        権大僧都□□□□
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清川村煤ケ谷八幡神社に保管されていた碑伝・護摩札については23ページを読んで頂けると概要がわかります。その中でもこの碑伝はもっとも古いものではないかと考えられます。文字が薄くなってしまっていて読めない箇所が多く、表記も後世の碑伝とは少し違いがあります。おそらく18世紀以前の碑伝だと考えています。

19世紀後半の日向山伏の碑伝には「採燈」と書いている部分がこの碑伝では「柴燈」となっています。一般に、山伏の行う火の儀式「さいとうごま」は本山派(本山:京都聖護院、天台宗系)は「採燈護摩」、当山派(本山:京都醍醐寺三宝院、真言宗系)は「柴燈護摩」と表記するとされていますが、羽黒山(天台宗系)では「柴燈」と「採燈」の両方を使う例があったようですし(戸川安章『修験道章疏二』「羽黒山修験柴燈護摩供」解題)、「柴」と「採」の使用法の差異にはもともと大きな意味があった訳ではないのではないかと疑っています。つまり、江戸時代に宗派が固まる中で宗派の違いを強調するために説かれるようになったのではないかと思っています。

しかし、この碑伝が古そうとは言え、せいぜい江戸時代中期頃までにしか遡らないと思いますので、江戸時代後期には本山派で小田原玉瀧坊の支配を受けていた日向山伏が「柴燈」を使っていたのは、もしや、江戸時代中期頃までは大きな宗派には属さず日向山霊山寺内の独立した山伏集団だった可能性もあるのではないか、などとも妄想しています。

いずれにしても日向山内の多くの史料は火災で失われ、残存している修験系の史料もまだあまり表に出ていないようで、はっきりしたことは今後見つかるかもしれない史料次第と言えます。

 ところで、この碑伝を発見するきっかけは、「宮ケ瀬サマーフェスタ」という当時の神奈川県ではびっくりするほど素晴らしい野外音楽フェスの実行委員長山口さんがこの神社の氏子役員だったご縁で神社拝殿内に案内して頂いたのでした。それも、清川村に引っ越してきたギタリスト佐藤克彦(かっちゃん)にいろいろ紹介してもらってつながったご縁だったような記憶があります。渡辺香津美や、故 ムッシュかまやつや、故 井上尭之などなど、清川村の山奥に一流ミュージシャンをたくさん集めて2005年まで良く10年も続きました。あっぱれな野外フェスでした。参考に、当時Webマガジン「町田音楽ネットワーク」を主宰していた私の紹介記事↓
http://musictown2000.sub.jp/mmn2/people14.htm

2020年10月15日 (木)

表紙の写真その5『御行列』

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大峰山中でのご本尊を入れた木製リュックサック「御笈(おい)」を背負うお役目の山伏たち。

宝暦7年(1757)に京都で出版されたこの『御行列』。八菅山以外にもどこかに残っていないかなあと探して「日本の古本屋」のサイトでも見つけたことがありますがそこでは『御入峯御行列記』という書名で、しかも絵無しの写本でした。ところが考古学の森下恵介先生がこの夏に出版された『吉野と大峰 山岳修験の考古学』(東方出版)を購入したら、その表紙がまさにこれでびっくり。現代新日本語的に言うと「かぶり」ました(笑)。ここでも史料名は『御入峯御行列記』。愛川町では『御行列』です。表紙の文字は消えてしまったのか表題がない状態で、最後に「御行列板元」として京都の板元(版元)の住所と名前があります。

宝暦七年(1757)に、当時の全国本山派山伏の棟梁 聖護院門跡増賞(ぞうしょう)親王(桜町天皇の猶子、当時23歳?)が大峰に入峰する時の長大な行列を一冊の本に仕立てたものです。描かれているのは山伏を中心にお付きの人々を含めて299人。でも当時の記録では実際は781人が入峰(『修験道聖護院史要覧』岩田書院2015)。7/25京都出立、徒歩(門跡は四方輿、一部は乗馬)で吉野(奈良県)へ向かい8/6から大峰山中で修行、9/2熊野本宮着、9/22京都帰着、10/10京都御所へ駈出参内(たぶん今で言う土足参内)、10/29江戸下向、12/6京都帰着。

大峰修行で身に着けた新鮮な験力(げんりき=山伏の宗教的・呪術的なパワー)を使って天皇と将軍を守るのが聖護院門跡の一番の使命でした。

そして、山伏装束の華やかな大規模パレードの様子を本にしてみんなで楽しもうというのがこの本の趣旨かと思います。出発時には山伏装束も法具の数々も汚れていないし、京都や途中の街道沿いの見物人の数もものすごかったはずです。

この行列の中に、八菅山衆 (愛川町)、覚圓坊(町田市木曽)、大蔵院(町田市図師)、熊野堂(厚木市旭町)、大鏡院(厚木市小野)、玉瀧坊(小田原市)、泉乗院(津久井長竹、相模原市緑区)、南覚院(相模原市中央区上溝)、仙能院(秦野市横野)などなど東京・神奈川エリアの山伏も描かれている訳です。八菅山に残っていたのも、自分たちがメディアに紹介された自慢の証拠として保存されていたからではないでしょうか。自己主張的書き込みも数々あります。

2020年10月10日 (土)

表紙の写真その4 九字之大事

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ご先祖が山伏で古文書を保管している家ならば、その中に普通にあっても珍しくない九字之大事の切紙(山伏が弟子に秘法を伝授する時に使用するノート)。これは文政13年(1830)のものです。
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九字之大事

臨   獨 鈷 印
兵   大金剛輪印
闘   外獅子 印
者   内獅子 印
皆   外 縛 印
陣   内 縛 印
烈   智 拳 印
在   日 輪 印
前   寶 瓶 印

南無五大明王刀兵不能
害水火犯漂得百寿
歳得見百秋安穏富
貴自在莎■(くさかんむり+訶)

嵐吹木ノ間ノ風ニ枝に(たぶん耳?)ナリ
向フ荒神怨敵ヲ皆
吹拂

 口伝  図(刀印で空を切る作法)

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4世紀初め(日本は古墳時代初期)の中国の道教に起源があって、日本に伝来してからは密教や陰陽道の呪術として発展して現代でも行者の護身法として使用されています。宗派・流派・目的によって色んなヴァリエーションがあるようです。ほんとに極めて知りたい方は密教のお坊さん(真言宗・天台宗)や山伏さんについて修行して下さい。ここにも「ロイ」と書いてあって、文章に表さず大事な核心は口伝で伝授する旨書いてあります。

ところで、陰陽道や忍術でも使われることもあった呪術ということもあって、現代の安倍晴明ブームや忍者ブームの中でも「臨兵闘者皆陣烈在前」は良く取り上げられます。怪しい呪術的歴史ロマンをかきたてるからだと思います。『魔界転生』とか、『陰陽師』とか、『セーラームーン』とか、『忍たま乱太郎』とか、嫌いではないです。

が、江戸時代の南関東周辺の一般の日本人がこの呪術を使っている人を見たとしたら、それは山伏だった確率が最も高いはずです。なぜなら、陰陽師や忍者よりも圧倒的に山伏の人数が多かったからです。

2020年10月 8日 (木)

表紙の写真その3 八菅山伏安永5年の碑伝

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清川村正住寺(臨済宗)で大切に保管されている八菅山伏円大院の碑伝
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 天下泰平 御武運長久領主栄盛 安永五申天 大先達一切経会不動不退
カンマン(不動明王) 奉修拾三番目行所児留薗地宿不動明王奥隆仏■(漉の下に土)之處
 國土安全 諸檀那繁昌悉地盛就 三月大吉日 修行権大僧都円大院慶永
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谷太郎川の支流、不動沢↓に存在した八菅山光勝寺持ちの堂舎に納められていました。詳しくは54~55ページをお読み下さい。
https://maps.gsi.go.jp/globe/index_globe.html#2707/35.47725753/139.26442266/1/360/-90/0/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=

かつて、この沢の上流の不動滝(カンマンの滝)まで行ってお弁当を食べていたら、無数のヤマビル軍団に囲まれて、すでに靴・靴下・ズボンには10匹以上のヤマビルが張り付いてそのうちの数匹はズボンの中に入って吸血していました。今でも夢に出て来ます。これを「悪夢」と言います。

当時、史料写真撮影を許して頂いた正住寺様にはもったいなくも今でも調査研究活動のご支援を頂戴しております。歴史と文化財の大切さを深く理解されている素晴らしいお寺です。合掌。

2020年10月 6日 (火)

表紙の写真その2『相州八菅山書上』国峰修行

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国立公文書館蔵『相州八菅山書上』の「国峰修行」の冒頭です。
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一 国峯修行
 一 二月十五日雨波継と申本尊江神酒ヲ供シ雨波敷殿仕度致し候
   尤年番寺庫ニ於ゐて山中江神酒を振舞申候当日ゟ祭礼
   中三月廿五日迄ハ手造り之濁酒ヲ酌候先例ニ候
 一 同十六日神木之神酒供シ山中江振舞申候
 一 同十七日神木立当日も神酒を出シ申候
 一 同十九日御礼祷祀礼之振舞料理先例有之当日
   奮家之氏子共罷出候旧例ニ候
 一 同日夜御幣加持并先達駈入之法具仕度吉例之神酒遣之
 一 同廿日祭禮修行年番にて神酒を供シ吉例之盃を出シ夫ゟ
   祭礼場江仕出鳥居之間ニおゐて捧幣神分ヲ讀本堂前ニて
   捧幣祭文讀祖師堂前ニて捧幣神分ヲ讀是ゟ大先達
   駈入 大先達者修行九度以上者勤之 
       九度未満之者不能勤山法ニ御座候 夫ゟ本堂庭前ニ而神木之

   ・・・(後略)・・・
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この史料が国立公文書館にあることは知っていました。ところが、八菅山について調べていた今までの研究者の誰もがその内容を確認していない事が気になっていました。どうせ数枚の史料だろうと高をくくって複写を申請しました。電話がかかって来ました。枚数が多いので結構な金額になるようなお話。思い切ってお願いしました。なんと表紙裏表紙付きで51丁、96ページ。

文政9年(1826)に八菅山が幕府の地誌調所に提出したものです。びっくり仰天、崩し字辞典を片手に読み始めました。しかーし、私は哲学科日本思想研究の出身。2017年の秋から冬にかけて、愛川町の山口研一先生のもとへ通ってご指導を受けながら添削して頂きました。
※その頃のブログ日記↓
http://banshowboh.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-794c.html

お金もかけたし時間もかけたしだったのですが、いつの間にか、私が複写依頼をしたこの史料は国立公文書館のデジタルアーカイブで公開されました!なるほど、利用者のお金で複写して、しばらくして公開するわけか~。

この史料の詳しくは拙稿「「相模の国峰」再考-『相州愛甲郡八菅山附属修行所方角道法記』と『相州八菅山書上』-」(『山岳修験』第62号、日本山岳修験学会2018)を参照してください。

2020年10月 1日 (木)

表紙の写真その1森

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今回の本では表紙の写真に13枚の写真を使いました。その中でも背景になっているのは仏果山の清川村側の森です。

2020年(令和2年)4月7日から首都圏は政府と都県の緊急事態宣言下にありました。仕事は休業、収入は途絶、ところが新緑の季節、「大山の背面鎮護」の山という愛川町半原の伝承(半原出身在住小島瓔禮先生から教わりました)の意味を、視覚的にわかって頂くためには、仏果山の山頂から大山を展望する写真を撮りたかったのです。今までにも何枚も撮ってはいます。しかし、へっぽこカメラでした。今のカメラPowerShot G7 X Mark IIで撮り直したかったのです。

しかし、4月24日、清川村へ車で向かう途中、愛川町では「神奈川県に来ないで下さい」の電光掲示板。下りてきたら登山自粛要請の掲示板。
当日のブログ↓
http://banshowboh.cocolog-nifty.com/blog/2020/04/post-2e5c1e.html

毎年見ているはずの新緑の森がことのほか美しく感じられたのです。

『丹沢・大山・相模の村里と山伏~歴史資料を読みとく』2020年9月23日出版

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どなたにも手に取って頂けるようにとハンディーなサイズの本を出版いたしました。この本には自分で撮影した写真や作図した図を中心に約100枚を使っています。本のサイズに合わせて写真や図は小さめにしました。でも、一枚一枚に歴史と思い出があります。一つ一つゆっくりとご紹介したいと思います。
http://banshowboh.world.coocan.jp/book2.html

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