『丹沢・大山・相模の村里と山伏~歴史資料を読みとく』2020年9月23日出版

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どなたにも手に取って頂けるようにとハンディーなサイズの本を出版いたしました。この本には自分で撮影した写真や作図した図を中心に約100枚を使っています。本のサイズに合わせて写真や図は小さめにしました。でも、一枚一枚に歴史と思い出があります。一つ一つゆっくりとご紹介したいと思います。
http://banshowboh.world.coocan.jp/book2.html

2020年11月20日 (金)

表紙の写真その11 日向山伏の碑伝

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幕末の文久2年(1862)に日向山伏が行った峰入り修行の帰途、煤ヶ谷八幡神社で行った採燈護摩祈祷の碑伝です。これもその6その7同様、やはり平成22年(2010)に神社に侵入した賊によって破棄されたため亡失。

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          文久二壬星    日向山大先達常蓮坊
カンマン(不動明王)奉修峯中採燈護摩供天下泰平國家安穏攸
          戌三月吉辰    権大僧都快泉法印同行九人
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日向山霊山寺は、現在の日向薬師本堂を中心に日向山山頂から現在のバス停「坊中」~「日向薬師」周辺の集落すべてを含む大きな寺院でした。つまり、日向の十二神将橋を渡ればすべてが霊山寺の境内です。日向山伏はその霊山寺内坊中に家族とともに暮らしていました。修験宗廃止令以降は全坊が還俗しました。「坊中」とはお寺の院坊の集まりという意味です。

日向山伏は大山・丹沢表尾根・丹沢主脈の峰入り修行を終えた後、蛭ヶ岳から青根に下り、青野原・鳥屋・煤ヶ谷・七沢の各村々で採燈護摩祈祷を行いながら日向まで帰ってきました。

日向山霊山寺と日向山伏については、21~26ページ、35~37ページ、85~93ページをお読み頂けるとありがたいです。なお、日向山伏の峰入り修行の詳しいことは『丹沢の行者道を歩く』(白山書房 2005)でご紹介しています。

2020年11月18日 (水)

本日の神奈川新聞

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ご紹介いただきました。

2020年11月17日 (火)

表紙の写真その10 八菅山伏の切紙

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八菅山光勝寺(現在の八菅神社+八菅山)の各院坊にはほぼ例外なく伝来していた切紙(修行テキストを筆写したノート)の一つです。これは文久3年(1863)のものです。

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・・・
(十六番)・・・
 心中諸願 如意満足

十七番釈迦嶽 心経一巻
 マクサマンダボダナン
 福寿増長 授軄利他

十八番阿弥陀嶽 心経一巻
 オンアミリタテイセイカラウン
 臨終正念 三尊来迎

十九番妙法嶽 心経一巻
 ・・・
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ここには八菅山伏の大山へ向かう峰入り修行(「国峰」)の各行所の勤行の次第が記されています。般若心経と各行所ご本尊への真言は欠かせません。清川村煤ヶ谷から登った大山三峰の山中での勤行の様子が少しわかります。「十九番妙法嶽」が三峰中央峰(935m)です。

因みに、釈迦如来のご真言は、真言宗では「ノウマクサマンダボダナンバク」、八菅山伏は天台宗寺門派系の本山派なのでこのように唱えていたはずです。

この史料は、各院坊ごとに『先達切紙』とか『切紙』とか『峰中三十番念誦私記』とか表題はバラバラですが、中身は同文です。ただ、先輩の山伏から教わりながら筆写する時に写し間違えたんだろうなあと思われる個所が所々に見つかります。例えば、右端の「心中諸願」は「心中所願」としている院坊が多いようです。

2020年11月15日 (日)

表紙の写真その9 煤ヶ谷八幡神社 明治3年の碑伝

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「神仏判然令」(本書では日本史教科書用語「神仏分離令」を使っていますが、厳密にはこう表記すべきと鈴木正崇慶應大学名誉教授にご指摘いただきました)と「修験宗廃止令」(本書では昔の『修験道辞典』の用語「修験道廃止令」を使っていますが、これも厳密にはこう表記すべきと同じく鈴木先生にご指摘いただきました)の狭間の時期に当たる明治3年(1870)の採燈護摩供板碑伝です。

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 今上皇帝 維時 明治三庚午年 當峯大先達 海合院/覺圓坊/光勝寺
カンマン(不動明王)奉修採燈護摩供國家鎮護祈攸
 寶祚萬歳  閏十月吉辰          結衆十有五人
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この碑伝については「第10章 神仏分離と『新編相模国風土記稿』」の138~139ページで詳しくご紹介しています。読んで頂けると光栄です。

ただし!正直に申し上げます。この碑伝の「寶祚萬歳」の2文字目に傷か汚れがあって、本書では「寶作萬歳」と読んで説明していました。「寶祚」とは天皇の位のことですが「寶作」と判断してしまい、豊作を祈願する表現とみなして書いています。

早くも、聖護院門跡のご門主 宮城泰年先生と上智大学の西岡芳文教授から、これは「寶祚」ではありませんか?という鋭いご指摘をもったいなくも頂戴いたしました。素直に納得いたしました!日本を代表する大研究者と大宗教者に直接ご教示して頂けることに感謝感激であります。という訳で、この場で以下修正させて頂きます。
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138ページ7行目:×「宝作(=豊作)万歳」→〇「宝祚(=明治天皇の位)万歳」
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2020年11月 5日 (木)

表紙の写真その8 『黒尊佛山方之事』

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文化2年(1805)の丹沢山地主脈の縦走記録『黒尊佛山方之事』

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イタツテスコキ所アル也
先不動尊ノ座ス所左ノ
方ニクボミ有九重ノ紅葉ノ
大木有此下ニ長壹尺程ノ
不動尊護守ナサシメタモウ
也不動尊御迎タモウハ未申
方ヲ御迎タモウ也、時ニ年号
貞次(ママ)三年三月二八日也是
文化二年迄凡四百四十三年
也不動嶽ヨリ藥師
嶽迄道方壹里半不動
尊ヨリ壹町程参ト不動
坂ト申坂有是從モ何ン所
也右之通スヾ野モ有又草モ
ハケ或ハアラシモ二三ケ所モ
有リ此所トウルヘシイタツテ
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これは、「第8章 江戸時代の丹沢縦走記録」をぜひ読んで下さると幸甚です。この史料写真の箇所はちょうど114~115ページです。そして、この第8章を読みながら、大倉から塔ノ岳、そして丹沢山・蛭ヶ岳を縦走すると、きっとタイムスリップ出来ます。なんならタイミングが合えばお付き合いいたします。

原文の全文はコチラ↓です。
http://musictown2000.sub.jp/history/kurosonbutu.html

2020年11月 3日 (火)

第3回相模国霊場研究会のご報告

http://banshowboh.cocolog-nifty.com/blog/2020/11/post-17043e.html?fbclid=IwAR2jvwxnIKRmOOylG-K3J1oGrO--7c6U9bRz7JktlUNxdnp1RhA0WyXrhto

2020年11月 1日 (日)

表紙の写真その7 煤ケ谷八幡神社 八菅山伏の碑伝

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その6同様、やはり平成22年(2010)まで清川村煤ケ谷八幡神社に保管されていた八菅山伏の採燈護摩碑伝。神社に侵入した賊によって破棄されたため亡失。
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       天下泰平 寶暦十一 辛巳 年  八菅山
カンマン(不動明王)奉修練採燈大護摩供村内長栄祈所
      (※ 左側は割れて欠けている)
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【裏】   (※ 右側は割れて欠けている)
              當峯
                  大先達圓宥院
シリー(仏眼仏母)ボロン(一字金輪仏頂)
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これも清川村煤ケ谷八幡神社に保管されていた碑伝です(23ページ参照)。右端の行は肉眼ではなかなか読みにくいのですが、画像編集加工ソフトでコントラストを変えながら読むとこのように読めました。

江戸時代中期の宝暦11年(1761)の古い碑伝です。裏に「當峯大先達」とあるので、入峰修行中にここで「採燈大護摩供」が行われたのかと推測しますが、日付がわからないので、確証はありません。

この碑伝の変わっているところは「修練」という文言だと思います。『日本国語大辞典』では「修練」は「修養、鍛練すること。人格、技術、学問などを磨き、きたえること」としています。「天下泰平」や煤ヶ谷村の「村内長栄」を祈りながらも、やはり、採燈護摩の練習を兼ねていたのでしょうか?

2020年10月19日 (月)

表紙の写真その6 年代不明の碑伝

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平成22年(2010)まで清川村煤ケ谷八幡神社に保管されていた峯中碑伝(ぶちゅうひで)。神社に侵入した賊によって破棄されたため亡失。
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    □□□□□□   □□(日向カ)山當先達大□□(泉院カ)
□(種字判読不能) 奉修峯中柴燈護摩供天下泰平国民安穏祈攸
     三月良辰        権大僧都□□□□
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清川村煤ケ谷八幡神社に保管されていた碑伝・護摩札については23ページを読んで頂けると概要がわかります。その中でもこの碑伝はもっとも古いものではないかと考えられます。文字が薄くなってしまっていて読めない箇所が多く、表記も後世の碑伝とは少し違いがあります。おそらく18世紀以前の碑伝だと考えています。

19世紀後半の日向山伏の碑伝には「採燈」と書いている部分がこの碑伝では「柴燈」となっています。一般に、山伏の行う火の儀式「さいとうごま」は本山派(本山:京都聖護院、天台宗系)は「採燈護摩」、当山派(本山:京都醍醐寺三宝院、真言宗系)は「柴燈護摩」と表記するとされていますが、羽黒山(天台宗系)では「柴燈」と「採燈」の両方を使う例があったようですし(戸川安章『修験道章疏二』「羽黒山修験柴燈護摩供」解題)、「柴」と「採」の使用法の差異にはもともと大きな意味があった訳ではないのではないかと疑っています。つまり、江戸時代に宗派が固まる中で宗派の違いを強調するために説かれるようになったのではないかと思っています。

しかし、この碑伝が古そうとは言え、せいぜい江戸時代中期頃までにしか遡らないと思いますので、江戸時代後期には本山派で小田原玉瀧坊の支配を受けていた日向山伏が「柴燈」を使っていたのは、もしや、江戸時代中期頃までは大きな宗派には属さず日向山霊山寺内の独立した山伏集団だった可能性もあるのではないか、などとも妄想しています。

いずれにしても日向山内の多くの史料は火災で失われ、残存している修験系の史料もまだあまり表に出ていないようで、はっきりしたことは今後見つかるかもしれない史料次第と言えます。

 ところで、この碑伝を発見するきっかけは、「宮ケ瀬サマーフェスタ」という当時の神奈川県ではびっくりするほど素晴らしい野外音楽フェスの実行委員長山口さんがこの神社の氏子役員だったご縁で神社拝殿内に案内して頂いたのでした。それも、清川村に引っ越してきたギタリスト佐藤克彦(かっちゃん)にいろいろ紹介してもらってつながったご縁だったような記憶があります。渡辺香津美や、故 ムッシュかまやつや、故 井上尭之などなど、清川村の山奥に一流ミュージシャンをたくさん集めて2005年まで良く10年も続きました。あっぱれな野外フェスでした。参考に、当時Webマガジン「町田音楽ネットワーク」を主宰していた私の紹介記事↓
http://musictown2000.sub.jp/mmn2/people14.htm

2020年10月15日 (木)

表紙の写真その5『御行列』

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大峰山中でのご本尊を入れた木製リュックサック「御笈(おい)」を背負うお役目の山伏たち。

宝暦7年(1757)に京都で出版されたこの『御行列』。八菅山以外にもどこかに残っていないかなあと探して「日本の古本屋」のサイトでも見つけたことがありますがそこでは『御入峯御行列記』という書名で、しかも絵無しの写本でした。ところが考古学の森下恵介先生がこの夏に出版された『吉野と大峰 山岳修験の考古学』(東方出版)を購入したら、その表紙がまさにこれでびっくり。現代新日本語的に言うと「かぶり」ました(笑)。ここでも史料名は『御入峯御行列記』。愛川町では『御行列』です。表紙の文字は消えてしまったのか表題がない状態で、最後に「御行列板元」として京都の板元(版元)の住所と名前があります。

宝暦七年(1757)に、当時の全国本山派山伏の棟梁 聖護院門跡増賞(ぞうしょう)親王(桜町天皇の猶子、当時23歳?)が大峰に入峰する時の長大な行列を一冊の本に仕立てたものです。描かれているのは山伏を中心にお付きの人々を含めて299人。でも当時の記録では実際は781人が入峰(『修験道聖護院史要覧』岩田書院2015)。7/25京都出立、徒歩(門跡は四方輿、一部は乗馬)で吉野(奈良県)へ向かい8/6から大峰山中で修行、9/2熊野本宮着、9/22京都帰着、10/10京都御所へ駈出参内(たぶん今で言う土足参内)、10/29江戸下向、12/6京都帰着。

大峰修行で身に着けた新鮮な験力(げんりき=山伏の宗教的・呪術的なパワー)を使って天皇と将軍を守るのが聖護院門跡の一番の使命でした。

そして、山伏装束の華やかな大規模パレードの様子を本にしてみんなで楽しもうというのがこの本の趣旨かと思います。出発時には山伏装束も法具の数々も汚れていないし、京都や途中の街道沿いの見物人の数もものすごかったはずです。

この行列の中に、八菅山衆 (愛川町)、覚圓坊(町田市木曽)、大蔵院(町田市図師)、熊野堂(厚木市旭町)、大鏡院(厚木市小野)、玉瀧坊(小田原市)、泉乗院(津久井長竹、相模原市緑区)、南覚院(相模原市中央区上溝)、仙能院(秦野市横野)などなど東京・神奈川エリアの山伏も描かれている訳です。八菅山に残っていたのも、自分たちがメディアに紹介された自慢の証拠として保存されていたからではないでしょうか。自己主張的書き込みも数々あります。

2020年10月10日 (土)

表紙の写真その4 九字之大事

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ご先祖が山伏で古文書を保管している家ならば、その中に普通にあっても珍しくない九字之大事の切紙(山伏が弟子に秘法を伝授する時に使用するノート)。これは文政13年(1830)のものです。
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九字之大事

臨   獨 鈷 印
兵   大金剛輪印
闘   外獅子 印
者   内獅子 印
皆   外 縛 印
陣   内 縛 印
烈   智 拳 印
在   日 輪 印
前   寶 瓶 印

南無五大明王刀兵不能
害水火犯漂得百寿
歳得見百秋安穏富
貴自在莎■(くさかんむり+訶)

嵐吹木ノ間ノ風ニ枝に(たぶん耳?)ナリ
向フ荒神怨敵ヲ皆
吹拂

 口伝  図(刀印で空を切る作法)

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4世紀初め(日本は古墳時代初期)の中国の道教に起源があって、日本に伝来してからは密教や陰陽道の呪術として発展して現代でも行者の護身法として使用されています。宗派・流派・目的によって色んなヴァリエーションがあるようです。ほんとに極めて知りたい方は密教のお坊さん(真言宗・天台宗)や山伏さんについて修行して下さい。ここにも「ロイ」と書いてあって、文章に表さず大事な核心は口伝で伝授する旨書いてあります。

ところで、陰陽道や忍術でも使われることもあった呪術ということもあって、現代の安倍晴明ブームや忍者ブームの中でも「臨兵闘者皆陣烈在前」は良く取り上げられます。怪しい呪術的歴史ロマンをかきたてるからだと思います。『魔界転生』とか、『陰陽師』とか、『セーラームーン』とか、『忍たま乱太郎』とか、嫌いではないです。

が、江戸時代の南関東周辺の一般の日本人がこの呪術を使っている人を見たとしたら、それは山伏だった確率が最も高いはずです。なぜなら、陰陽師や忍者よりも圧倒的に山伏の人数が多かったからです。

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